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2013年5月19日
『赦されるとは』
(新約聖書 ローマ人への手紙 6:15〜)
   人間が辛さを感じて苦しむ一番の原因は、人からどう思われるかということです。愛されたいと願うこととも言い換えられます。
   二番目の原因は死です。人は生きるために健康や富を求め、これが得られないと辛いと感じます。
   聖書では、この二つの心を罪と呼びます。罪とは神に心を向けないことで、人に心を向け、お金に心を向けているからです。
   罪は、死が入り込んだことで生じました。人間は本来神を愛し神と共に永遠に生きるものでしたが、アダムとエバが禁じられた実を食べたことで神との信頼関係が壊れ、死ぬものとなりました。死とは神との関係が壊れることです。その結果、人は自らの力で心の糧を得、体を維持しなければならず、それを人の愛や見えるものを手にすることに求めました。こうして心は、神を愛する心と見えるものを愛する心とに分割されました。人の愛や富を求める心が神と反対方向に心が向くため、辛さを感じます。今、私達が苦しんでいる人間関係、仕事……すべての問題の元を正せば、ここに行き着くことに気づくでしょう。
   神の福音は、私達をこの苦しみから救ってくださるものです。

   福音の第一段階は、神との関係の回復です。人は、神との関係が断たれたため、仕方なく見えるもので心を満たすようになりました。ですから、この生き方をやめるためには、神との関係を回復することが必要です。これが救いです。この救いは、ただ神を信じることで受けることができます。
   なぜなら、見えるもので心を満たそうとすることが、神に心を向けないという罪であり、この罪は病と同じで、自分では取り除くことができないからです。アダムとエバの違反によって、死という病原菌が入り込み、神との関係が断たれた瀕死の病人を、神は憐れみ、一方的に救ってくださるのです。その治療の第一段階は、信頼関係の回復、病人が医者を信じるところから始まります。その医者とはイエス・キリストです。イエス様は、自ら罪を背負って十字架に架かり、神との関係を壊した死を滅ぼし、関係を回復する道を用意されました。
   さらに、神との関係が回復された人には、福音の第二段階があります。
   救われても罪が消えたわけではなく、人から愛されたい、見返りが欲しいという心はなくなりません。愛するように造られたのに、愛せない心が自分を支配しているので、人は苦しんでいるのです。
   ですから、福音の第二段階は神を愛する心の回復です。神を愛するようになると、人を愛するようになり、見返りを求めず平安になります。神を愛するとは、罪を悔い改めることで、心を神に向けていく作業です。これが聖書の教える行いです。救いは信仰によるものであり、行いは必要ありませんが、神を愛する心を回復させるには、この行いが必要になります。

『というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:14,15)


   罪があなたを支配しないとは、清い人間になってもう悪いことをしなくなったという意味ではありません。神との関係が回復した人は、再び神との関係の崩壊が支配することはない、つまり関係が再び壊れることはなく、救いが取り消されることはないということです。
   また、この「律法」は罪を指し、神との関係が回復していない救われる以前のことです。それに対して恵みの下とは、神との関係が回復したことを指します。
   神が、私達との関係を回復した目的は、見えるものにしがみついて苦しむ私達の心を癒すためです。罪を言い表して赦されると、罪が取り除かれ解放されるので、心が癒されるのです。
   このように、福音の第一段階は神との関係の回復であり、第二段階は、関係を回復した者が平安を得るために心が癒される段階です。
   救われても今までと同じ生き方をしていたら、心は今までと同じです。神は第一段階の救いだけでなく、真の平安を与えたいと願っているので、見えるもので心を満たす生き方はやめなさい、と教えているのです。

『あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:16)

   もし救われず、神との関係がない状態で生きていくならば、罪の奴隷として、死(永遠の死)を迎えます。神との関係が回復されても、罪で心を満たし続けるならば、心は回復せず平安を得られません。従順の奴隷とは、神に心を向ける生き方です。神に心を向けるなら平安に至ります。

『神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:17〜19)


   罪の奴隷から義の奴隷になったとは、神との関係が断ち切られ罪に生きていたものが、イエスを信じれば救われるという教えを信じたことによって神との関係が回復したということです。
   私達は皆、神を信じる前は、不法(罪)の奴隷でしたが、神との関係を回復したのですから、もうそのような生き方はやめましょう。
   聖潔とは、見た目の良い行いのことではなく、神を信頼することです。それによって行いも変わりますが、人から良く思われる行いをしようと目指すのではなく、神を愛し信頼する心を取り戻さなければどんな行いも無意味です。

『罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:20〜23)


   神との関係を回復していない時に得た実は、何の役にもたたず、行き着くところは死であり、結局滅びます。富も名声もいつかなくなります。
   神の奴隷とは、神との関係が回復し、神から心の糧を得られるようになったということです。こうして、永遠に残る実を得、永遠のいのちに行き着く者となりました。それは見えるものから神に心が向けられるようになり、平安を得られるようになったということです。
   罪がもたらすものは死であり、神の下さるものは永遠のいのちで、行き着くところも永遠のいのちです。見えるものから神に心が向くことを、永遠のいのちに至るという言い方をします。永遠のいのちとはキリストです。永遠のいのちを持つ者は、永遠のいのちに至るのです。つまり、永遠のいのちをいただいているので、平安の実に行き着くという意味です。
   聖書はよく一つの言葉に二つの意味を持たせています。例えば、罪という言葉は、神に心が向いていない状態という意味と、死という意味があります。罪から解放されたと言ったり、罪を悔い改めよと言ったりするのは、私達は死から解放された者だが、神に心が向いていない状態は悔い改めよという意味です。
   ですから、聖書を読む時は、文脈によって理解することが大切なのですが、永遠のいのちに関しては多くの人が勘違いをしています。
   「罪から解放されて永遠のいのちに行き着く」と言われると、悪い行いがやめられなければ永遠のいのちをもらえないのだと理解する人が大勢います。しかし、永遠のいのちは神の賜物としてすでにいただいているとはっきり記されていますから、それは誤った理解です。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:16)
『それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:15)


   永遠のいのちの条件は、御子を信じることだけです。イエス様を信じれば永遠のいのちを持ち、神の食事を食べられる状況になったのですが、食べているとは限りません。御言葉を食べなければ、私達の心は安心を得ようとして、今まで通り見えるものを追い求め、病でつらいままです。病んだ心を神の方に向けることが癒しの始まりです。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:24、25)

   「自分の命を愛する」とは、死によって二つに分割された命のうち、見えるものを愛する肉の命です。キリストの贖いによって救われ、永遠のいのちを持っても、多くの人が、富と神の両方に仕え、自分の願望を達成するために神を利用しようとします。しかし、そのような生き方をしても何も残らず、死に至るのと同じことです。この世のものを愛する肉の命(すなわち罪)を憎む者は、永遠のいのちを保って、永遠のいのちに心が向き、平安という宝を手にします。

   また、多くのクリスチャンが、神の命令を破った罰として死が与えられたと勘違いしているのですが、神の福音を正しく理解する上で、死は報酬か罰かという理解は、非常に重要です。この理解で神の理解が180度変わり、神との関係に大変な影響を与えるからです。死は神が与えた罰ではありません。違反行為の結果です。
   罰とは悪い行いを修正するためのものです。死は罪の罰だと考えると、行いが良くなれば赦される、すなわち行いで救いを獲得する律法主義の理解になります。
   もし、死が罪の罰だとしたら、聖書では報酬ではなく報いという言葉が使われます。「報酬」は罰ではなく対価を表す言葉で、罰の概念があるのは「報い」です。一般に、罪=罰という概念があり、悔い改めれば赦されるとは罰が赦されるという意味だと解釈して、悔い改めとは、罰を受けないように助けて下さいという意味だと思ってしまいがちです。しかし、神には罰を与えるという概念がありません。
   放蕩息子のたとえからもわかるように、神は罪に対してたった一つの罰も与えません。罪には一言もふれず、共に食事をし、共に過ごしてくれました。つまり、今まで見えるもので満たそうとしていた心を癒したのです。
   赦すと、癒すは同じ意味です。「赦す」というギリシャ語は、本来「取り除く・解放する・自由にする」という意味の言葉です。罪の赦しを求める悔い改めの目的は、罰が赦されるためではなく、癒されるためです。神を愛することができないその病を癒すためのものです。

『群集のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。』(新約聖書 マルコの福音書 2:4,5)

   イエス様は中風の人に対して、「病を癒す」とは言わず、「罪を赦す」と言われました。神にとって罪は病気であり、癒しと赦しは同じことです。だから、彼らの信仰を見て、彼らの心が神に向いていることを確認し、「罪は赦された」すなわち病気は治ったと言われたのです。
   神に心が向かず、神を愛せないことが病気であり、神に心を向けることが信仰です。神を愛することができれば平安になれるのです。

『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 5:15,16)


   罪が赦されるとは心が癒されることです。信仰による祈りは心を癒すのだから、癒されるために悔い改めなさいと聖書は教えます。
   多くの人が、罪とは自分がダメな証拠だと思って自分を責めています。そうではなく、罪は死がもたらした自分ではどうすることもできない病気です。罪を言い表すことで、神がそれを取り除き、罪の病気から癒されるのです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   もし、救われても辛さを感じるならば、それは自分の罪を言い表して神の治療を受けないからです。つらいと感じるのは、何かにしがみついている時です。今までと同じ生き方をするなら、つらさから解放されません。罪を言い表すのは癒されるためです。神を愛せない心、見えるものにしがみつく心を神に向け、神が造った本来の心を取り戻すこと、これが癒しです。罪で病む私達の心を癒すため、イエス様は十字架にかかりました。これが福音です。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)