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2013年5月5日
『死は罰ではない』
(新約聖書 ローマ人への手紙 5章6節〜)
   キリストは、私達が何か良いことをしたから十字架にかかってくださったのではなく、私達がまだ罪人の時に十字架にかかってくださいました。神は私達の行いとは関係なく、私達を愛しておられます。

『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:6〜8)

   私達は、悪いことをしたら怒られ、良いことをしたらほめられるという価値観の中で育ってきました。ところが、この価値観を基準に聖書を読むと、福音を理解することはできません。なぜなら、神の考え方はまるで違うからです。
   自分の行いや人の行いが不十分なのを見て、「なんという罪人なのか」と嘆いたり、裁いたりするのは、自らの経験を基準に聖書を読んでいるためです。経験が御言葉の意味を惑わしているのです。
   経験を基準に聖書を読み、死は罪を犯したことに対する罰だと理解する方が多いのですが、死は罰ではありません。
   冒頭の御言葉の「弱かったとき」と「罪人であったとき」という言葉は、同じ状態を指して使われています。神は、私達の罪を「弱さ」と理解しておられるということです。弱さとは、健康に対して、病の状態です。ペテロの手紙でも、イザヤ書でも、十字架によって罪から贖われることを「癒し」と表現しています。神は死を背負ったために罪を犯してしまっている私達を、なんとか助けたい、癒したいと願っておられます。
   罪は、神の罰でも私達の本性でもなく、死という病が私達の中に入ったことによって、私達が弱くなった結果、犯すものです。

『それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:21)

   死が私達に入ったことによって、私達は罪に支配されるようになりました。多くの人は、自分が罪を犯すのは、自分の本性・自分の内側から生まれた問題だと思っていますが、そうではなく、死がもたらしたものなのです。
   この事を正しく理解していないと、自分の行いや人の行いを見て、ただ裁いてしまいます。行いで人を判断する価値観の中で育ったため、罪を犯す人間は悪い人間、ダメな人間だと思い込んでしまうのです。
   しかし、放蕩息子が家に戻った時、父親は一切罰を与えませんでした。むしろ彼を癒すかのように抱きしめ、祝福しています。
   つまり死が私達に罪を犯させ私達を苦しめているので、神にとって罪は病であり癒すべきものであり、罰を与える対象ではありません。神は罪から救うと言っておられるのです。

『ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:9〜12)

『もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:17)


   神は、私達が救いを得られるように自ら十字架に掛かり、すべての人が神を知ることができるように、聖書や自然を通して、ご自身を現しておられます。この救いを拒んだまま、永遠の死が確定することが神の怒りです。
   ひとりの人(アダム)が罪を犯したため(聖書では夫婦は二人で一人とみなします)、死が全人類に広がったとは、一般的に、神が罪の罰として死を与えたと理解しがちなのですが、実は、「神の罰」という言葉は聖書にはありません。
   確かに、「罪から来る報酬は死です」とありますが、「報酬」という言葉は罰を含みません。罰を含む場合は、「報い」という表現になります。
   神は、アダムとエバのおかしな様子を見て、「食べたのか」と確認されました。このことから、神が死を与えたのではなく、違反行為を犯した段階ですでに死が入っていたことがわかります。神が人との関係を断ち切ったわけではなく、違反行為によって神との関係が壊れてしまったのです。
   これまで、「死とは神との分離である」と表現してきましたが、むしろ「死とは神との関係が壊れた状態である」というほう適切です。
   人は三位一体の神に似せて造られました。三位一体とは、父・子・聖霊という3人の神様が、一点の曇りもなく信頼し、従い合い、愛し合い、助け合う関係であり、その意志は常に一つです。この関係を愛といいます。
   人はこの関係に似せて造られたのです。人と神との関係において、一点でも曇りができたら、この調和は壊れてしまいます。
   だから神は、「この実を食べたら必ず死ぬ」と、アダムに注意をしました。木の実をひとつ食べるというわずかな違反行為であっても、それを犯したら神と調和した関係は壊れてしまうのです。それが死です。
   人はこの違反行為を犯し、自ら神との関係を壊してしまいました。これが、罪によって死が入ったということです。決して神が罰として死を与えたわけではありません。

『もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。』(新約聖書 ヤコブ人への手紙 2:9,10)
   
   神と私達の関係は一点の曇りもない関係として造られたので、たった一つでも曇りが存在すれば、調和は失われます。アダムとエバの違反行為によって、罪がまったく存在しない世界に、一点の曇りが生まれました。神との関係を壊すという意味では、一つの違反でもすべての違反でも同じことです。
   アダムとエバは自らの違反行為によって、神との関係を壊してしまったのです。ですから、神との関係が壊れたのは、罪の罰ではありません。
   これが理解できないと、神の福音を正しく理解することができません。
   罰というものには目的があります。それは、相手を矯正して、良い行いに導くという目的です。もし、死が神の罰ならば、罪は罰の結果であり、今日の私たちが苦しみは神の罰の結果ということになります。ならば、この苦しみから救われるには行いの矯正があれば良いことになります。
   パリサイ人はそう理解して、それを人々に教えていましたし、今日のクリスチャンの中にもそのように理解する人は大勢います。悪い行いは怒られ、良い行いはほめられる世界で生きている私達には、そのほうが理解しやすいのです。    

   死が神の罰ならば、罰を与える神は怖い神です。その神様に赦してもらうためには、神の前で頑張る生き方になります。
   しかし、死は実を誤って食べた結果だとすると、過ちによって苦しんでいる人たちを神様は憐れんで、なんとか助けたいと願っている神の姿が浮かびます。
   実際、神様は、過ちを犯したアダムとエバに着物を着せて、「私がお前たちを助けるから大丈夫だからね」と約束し、自分で命を取り戻そうとすることのないように、エデンを追放したと聖書にあります。
   死の反対は命です。罪の赦しとは、命を取り戻すことです。命を取り戻すには、良い行いをしなければならないのではなく、神を信じて受け取れば良いのです。
   なぜ信じるだけで救われるのか……それは、神は私たちの行いの矯正を求めていないからです。行いによっては救われないのです。神はただ私たちを罪から救い出したいのです。行いで救われない以上、信仰で救われるのです。
   さらに付け加えるならば、神との関係が回復すると、見えるものにしがみつく行いが是正され、良い行いに変わっていきます。神はそれがわかっておられるのです。

『というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:13,14)


   アダムとエバが神との関係を壊したのに、なぜ私達まで死を背負わなくてはいけないのかと疑問に思いう方もいるでしょう。
   それは、ふたりのために土地は呪われたと書かれている通り、ふたりが神との関係を断ち切られることで影響を受け、この世界は変わってしまったからです。
   神がこの地上を造られた時、滅びるものは一つもありませんでした。しかし、神が、この地を治めるように定めた人間が罪を犯したことによって、世界に死が入ってきました。死の世界です。
   私達は全員死という世界に閉じ込められています。私達はアダムとエバの一部からできています。神との関係が断ち切られた状態で、死を背負って生まれてくるしかありません。
   しかし、この世界が終わりを告げて、更新されるとき、すべてが永遠なるもの、もとの状態に戻されます。今は、救われても死の世界の中で生きているので、たとえクリスチャンの子であっても死を背負って生きています。

『ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:15〜19)

   アダムの死によって、死が人々を支配するようになり、キリストの死によって、恵みが人々を支配するようになります。アダムによってすべての人が苦しんでいるのなら、キリストによってすべての人が救われるのは当然だと聖書は教えています。
   救いとは、死から命を取り戻すことであり、罪が赦されることです。「赦し」という日本語の概念と、聖書の概念は相当異なります。「赦し」と訳される言葉は、「アフィエーミ」で、「去らせる、送り出す、捨て去る」等の意味があり、あとかたもなく完全に消してしまうという概念があります。
   神の目には、私たちの罪は完全に消え去って、何も映りません。私達の記憶に残っていても、神の前には何もないのです。だから、神は、あなたを裁く理由はないと言われるのです。それが神の用意された義です。これが聖書の教える赦しです。
   この赦しは、十字架を通してもたらされ、信じる者は誰でもその恵みに預かることができるのです。   

『律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:20,21)

   アダムとエバの時代には、正式な律法はありませんでしたが、今は律法があるので、律法によって、私達は自分の罪を認めることができます。神の律法が与えられ、自分の罪がわかるようにされたのは、恵みに預かって永遠の命を得るためです。自分が罪人だとわかったら、神の手をしっかり握り、赦しを受ければいいのです。