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2013年4月28日
『信仰による義とは』
(新約聖書 ローマ人への手紙 4章18節〜)
   ローマ人への手紙のテーマは、「どうすれば救われるのか」です。
   人間は必ず死を迎えます。その先人間はどうなるのか――人類の多くは、頑張れば神が認めてくれて、次の世界に連れて行ってくれると考えました。
   残念なことに、神の言葉を託されたイスラエルの民も、その価値観によって神の言葉を読み違え、割礼など様々な律法を頑張って守れば、神が認めてくれて、永遠の命を手に入れられると思い込んでしまいました。
   何を頑張れば救われるのかという発想で聖書を読むと、聖書の考え方は律法になり、今にいたるまで、この世はその考え方に支配されています。しかしパウロは、ローマ人への手紙を通して、その考え方の間違いを繰り返し説明し、神の言葉を正しく理解できるように教えています。

『彼(アブラハム)は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:18〜25)


   アブラハムは、ユダヤ人が最も尊敬する信仰の理想です。旧約聖書が、アブラハムは信仰によって義と認められたと教えている通り、私達も信仰によって救われるのです。

信じるとはどういうことか

1.信じるとは、納得することではない
   望み得ない(18節)とは、納得できないということです。神はアブラハムとサラに子が生まれると言われましたが、二人はすでに老人になっており、その言葉はとうてい納得できるものではありませんでした。
   納得できなければ信じられないと言うのは、信仰ではありません。信じるとは納得することではありません。

2.信じるとは、信頼すること
   信頼するとは、それによって安心することです。アブラハムは、神は約束を守る方だと信頼し続けました。
   一般的に、人はお金があると安心します。また、肩書きを見て安心します。お金や肩書きを信頼しているので、自分もそれを手に入れようとして生きています。
   人間の体が食物を必要とするように、私達の心は言葉を食べて生きています。お金や肩書きを持つことで人から良く思われ、良い言葉=おいしい言葉をもらえます。ほとんどの人が気づいていないのですが、私達がお金や肩書きを手に入れたがる本当の目的は、良い言葉を手に入れることなのです。
   もし、良い関わりが崩れると、まずい言葉を食べる事になり、辛さが生まれます。すると人は、良い言葉を得るために、頑張って自分を認めさせたり、相手を責めたりするようになります。どんな辛さも、その原因はおいしい言葉が食べられない事です。
   しかし、神の言葉こそ、本来私達が食べるべき正しい食事です。神を信頼すればするほど、神の言葉を食べて安心を手に入れることができるようになります。聖書が教える「信じる」とは、神を信頼することで安心を手に入れることです。


3.信じるとは、自分の無力さに気づくこと
   神はアブラハムに子を与えると約束されましたが、老人になったアブラハムとサラは、子を宿すには完全に無力な状態でした。この状態で赤ん坊が生まれると信じるには、神を信頼するしか道はありません。
   アブラハムも若い時には、自分の力で子どもが生まれるように頑張ったこともありましたが、力尽きて何もできなくなった時、信じることができるようになったのです。信じるとは、自分の無力さに気づくことです。アブラハム100歳サラ90歳という年齢に、神への信頼を生む深い意味があるのです。
   人は、そこそこの関わりでそこそこの心の食事ができると、神の食事の必要に気づきません。しかし、行き詰まり、自分の無力さに気づく時、神との関わりを知り、神の言葉を食べるようになります。それが私たちの心の救いとなるのです。

   私達は、いつ死が訪れるかわからない無力な存在です。無力ゆえに信じるしかありません。そのことに気づける事は幸いな事です。

信じるだけで救われることを信じる

   信じるだけで救われるのは、私達がもともと良きものとして神に造られたからです。救われるとは、枝である私達が、神という木に接木されることです。接木できるのは同質のものだけです。木に鉄パイプはつながりません。私達は、神の命をいただいて造られました。今さら良きものを目指す必要はありません。
   良いことをしなければ救われないのではなく、良きものゆえに信じるだけで救われるのです。神に接木され、神との関係を回復し、本来の命を取り戻すことで、本来の生き方ができるようになってくるのです。

『ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:1)

神との平和とは、国交断絶が回復するようなもので、神との関係の回復です。神との関係が回復したと確認する唯一の方法は、「イエスは主である」と信仰を告白できるかどうかです。
   
『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:3)

   一度神との関係を回復したら、その関係はどんなことがあっても壊せません。ところが、多くのクリスチャンが、自分は良い行いができないので、救われていないのではないかと不安を感じています。
   なぜ、救われても良い行いができるようにならないのでしょうか。それは、神に接木され、神との関係を回復しても、まだ管までつながったわけではないからです。樹木には、水分や養分を運ぶ毛細血管のような管があります。実を結ぶためには、さらにこの毛細血管までつながることが必要です。
   毛細血管の流れを邪魔しているのが罪です。ですから、実を結ぶためには、罪という血管の詰まりを取り除かなくてはなりません。御言葉を読んで自分の罪に気づき、悔い改めて血管の詰まりを取り除き、通りを良くすると、循環が良くなり、枝に平安という実を結ぶようになります。悔い改めは、血管の詰まりを広げるカテーテルのようなものです。
   良い行いができないのは、救われていないからではなく、血管がきちんとつながっていないからです。このことを理解していないと、不十分な自分の行いを見て、自分は救われていないのではないかと不安になります。
   また、救われた人は、人の言葉を食べることでも不安になります。神の言葉を食べられるようになると、人の言葉を食べると虚しさを感じるようになるのです。ですから、救われたら神の言葉を食べる習慣に変えないと辛くなります。いつまでも人の言葉ばかり食べていると、新しい辛さを味わうことになってしまいます。
   人の言葉を食べているかどうかを確認するポイントは、人を裁いている自分に気づくことです。人からおいしい言葉を食べたいと願っていると、おいしい言葉をくれない人を裁きます。しかし、神の言葉を食べること、つまり、聖書は何と言っているのかに関心を持つと、裁いたり争ったりしなくなります。
   救われたら、行いによって救いが取り消されることなどないのですから、それを心配するのはやめて、毛細血管をつなぐことに心を向けると、多くの平安の実がなります。それが神との平和を持っているということです。

『またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:2)

   救われるとは、永遠の命を持つだけではなく、神の栄光を望んで喜ぶようになることです。神の栄光とは十字架の贖いです。
   十字架の贖いは罪を取り除き、血管の流れを良くし、神との関係を一つ一つ築き上げてくれます。その素晴らしさに気づき、罪の赦しを望んで大いに喜ぶようになるのです。

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3〜5)

   接木の方法は木の幹に穴を開け、枝を差し込み、外側からしっかり固定します。接木した部分は初めはもろいのですが、しっかりくっつくと元の木とひとつになり、びくともしません。木につながった枝は、いつも木が支えてくれるので、嵐すら恐れる必要はありません。
   生きていくには、現実にぶつかる様々な問題を乗り越え、解決していかなければなりません。しかし、どんな問題にぶつかろうとも、共にいて支えるから大丈夫だと、神は言ってくださいます。人生におけるあらゆる患難や問題に対して、必ず助けると神は約束しておられます。もし、問題にぶつかって諦めたら、脱出の道は見つけられません。しかし、必ずどこかに脱出の道が用意されていますから、患難さえも喜びになるのです。

   このように、救いとは、ただ神との関係を取り戻すだけではなく、関係を回復させ、さらに、詰まった血管の通りを良くして平安の実を結ばせ、雨や嵐という患難にぶつかった時には、必ず主が助け出す道が用意されている人生です。神を信頼するならば、失望することは決してありません。問題にぶつかっても、ダメだと諦めるのではなく、神が与える励ましの言葉を信じ、神がいるから大丈夫と信じましょう。主があなたに勇気と希望を与えます。