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2013年3月31日
イースター礼拝のメッセージより『復活が意味すること』

『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓についた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。』(新約聖書 マルコの福音書 16:1〜6)


   キリスト教の教えの中で、イエス・キリストが復活したという教えは非常に重要です。
   「キリストの復活はデマだ。死人が生き返るなどということはあり得ない。」と、多くの人が繰り返し議論し、復活を否定しようとしましたが、不可能でした。歴史を様々な角度から検証すると、復活が事実でなければ、どうしても説明できないことばかりなのです。
   イエス・キリストが十字架につけられて死に、3日目によみがえったという話は、キリストの生涯を記した4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)にはっきりと記されています。
   これらの福音書は、キリストの十字架から2〜3年のうちに作られた資料をもとに書かれています。そして、当時、イエスが十字架につけられて死んだことは、すべての人が知っていました。つまり、イエス・キリストを直接知っている人々もこの聖書を読んでいたことになります。
   もし、キリストの復活がデマであれば、人々は事実を知っているのですから、黙ってはいません。しかし、人々はそれを信じ、記録として残しているのです。聖書の年代の古さが、キリストの復活を否定できない証拠の一つです。
   通常、死んだ人がよみがえったなどという伝説を広めるには、2世代(約100年)後でなければ不可能です。その人物を知る人がまったくいなくなれば、まことしやかに話をでっちあげ、神話を作ることが可能だと言われています。
   しかし、キリストの十字架後まもなく聖書は書かれ、信仰告白がされていました。もし、聖書に嘘が書かれていたならば、誰も読もうとはせず、自然に廃れたことでしょう。しかし、皆が読んで、さらにキリスト教が広がっていったことを考えると、復活は事実としか考えられません。
   今日、世界的に日曜が休みになったのは、キリストが復活したのが日曜日だからです。もともと日曜日は週の初めの仕事始めの日であり、礼拝は土曜日に行われていました。しかし、人々はそれまであった礼拝をやめて、日曜日に礼拝をするようになりました。なぜなら、復活があったからです。イエス・キリストを信じる人が増えて、世界の習慣まで変わりました。
   ローマが、キリスト教を迫害し弾圧していた時代に、なぜこんなにもキリスト教が広まったのでしょうか。人々が復活を見たからです。
   人間のイデオロギーであれば、こんなに広がるはずがありません。その他、様々な科学的検証によっても、イエスの復活は否定できません。
   キリストは復活し、それは信仰の支えとなって全世界に広がりました。今日は、キリストの復活が語る3つのことをお話ししたいと思います。

1.死は終わりではない

   イエス・キリストの復活は私達に、死は終わりではないことを教えてくれます。イエス・キリストは自ら復活することで、私達に希望を見せてくださいました。
   日本では、人間は物質からできていて、死んだらそれでおしまいと考えている人が多くいます。人生は決まった長さしかなく、その先がないと考えると虚しく、死んだらどうなるのだろうという恐怖に怯えます。
   しかし神は、死は新しい命の始まりだと教えてくれています。神は、私達が行く場所を用意してくださっているのです。死は終わりではなく通過点だと考えると、人生の組み立て方、物の見方が大きく変わります。そのことがわかると、死に対して備えができ、生き方が変わってきます。
   地上の人生は限られています。死が訪れたら終わりと考えるか、死は通過点であり、その先に希望があると考えて生きるか、どちらの生き方が、より良い生き方を生むでしょうか。キリストの復活が私達に教えてくれている希望をつかみましょう。

2.人生はやり直しがきく

   あなたの人生はやり直しが聞きます。多くの人が失敗を恐れるのは、1度失敗したらやり直しが効かないと思っているからです。そう思うから、自分を隠し、人からよく思われようとしたがるのです。特に日本人はその傾向が強いようです。しかし、人生はやり直しがきくとわかると、そこには希望があります。

『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私達も、いのちにあって新しい歩みをするためです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:4)

   十字架の救いは、私達を死から解放するだけではありません。私達が救われたのは、新しい生き方をするためです。キリストの復活は、死に対する希望だけでなく、新しい人生を生きることができる希望を与えてくださいました。
   元麻薬売人から牧師になったサム・チルダースという人がいます。ある時、彼は麻薬の密売人仲間から命をねらわれ、森に逃げ込みましたが、森の中で銃を取り出そうとすると、いつも携帯している銃がなく、代わりに古びた聖書が1冊入っていたのです。実は、クリスチャンであるお母さんが、こっそり銃と聖書を取り替えていたのでした。呆然とするサムでしたが、彼は仕方なく木の根元に腰を下ろし、聖書を読み、祈りました。「神よ、どうか助けてくれ」と。
   すると、なんと自分を殺そうとしている相手が、サムの目の前を通り過ぎていったのです。サムが目の前にいるにもかかわらず、相手にはまったく見えていない様子でした。その時サムは、自分は神に愛され、守られていると、はっきり悟ったのです。
   やがてサムは、すでにクリスチャンになっていた妻と共に教会に行き、救われました。彼は心を入れ替え、ドラッグと酒をやめることにも成功し、建設会社を立ち上げるまでになりました。彼はイエス・キリストに出会って初めて、自分の罪が赦されたという希望を持ったのです。
   やがて彼はアフリカスーダンで拉致され殺されていく悲惨な子ども達を目撃し、彼らを助けるために生きることを神に祈りました。そして、牧師になり、教会をベースに孤児院を作り、子ども達を救い出し、今も大勢の子ども達がそこで暮らしています。
   聖書は、どんな人でも人生やり直しがきくことを教えています。神は私達の人生をリセットしてくださるのです。
   イエス・キリストと出会って人生が変えられた人は、ザアカイ、娼婦など、聖書の中にも大勢います。彼らはなぜやり直しができたのでしょうか。
   それは、イエス様が一言も彼らのことを、ダメだと責めなかったからです。私達は、自分はダメだとか、ダメだからもっと頑張ろうとか思って生きてきました。しかし、神はあなたを良き者としてしかご覧になりません。良き者として見られると、人は良き者として生きようと思うのです。
   よく、人間はダメだから神に出会って良き者に変わる、それがキリスト教の教えだと勘違いしている人が大勢いますが、そんなことは決してありません。神は私達を良き者と見て、罪を責めずに励ましてくださいます。本当は良き者なのに、自分をダメな者と思い込んでダメな者の生き方をしている間違いを正し、良き者の姿を復活させたいのです。それが、復活が教えてくれる福音です。

3.すべてのことが益とされる

   イエス・キリストが十字架にかけられた時、弟子達はもうこれでおしまいだという絶望のどん底に落とされました。しかし、今、十字架は神の栄光であったことを、すべてのクリスチャンが知っています。神は絶望すら益とされます。すべての終わりに見えることも、神の目から見るとまったく逆なのです。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私達は知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   私達が自分の人生を見てもうダメだと思っていることを、神は完全にひっくり返すことがおできになります。私達がもうどうしようもない状況だと諦めてしまうようなことに対して、神は、そうではない、栄光に変わると語っておられます。
   ハワイに住むベサニー・ハミルトンは、天才サーファーと呼ばれていた13歳の時、左腕をサメに食いちぎられる事故に会いました。奇跡的に命は助かりましたが、片腕を失うという絶望的な状況の中、クリスチャンの両親や教会の人達の励ましにより、彼女はもう1度サーフィンを志します。しかし、片腕でサーフィンをするのは並大抵のことではありません。挫折した彼女は、自分は何のために生きるのかを求めて、ボランティアに参加し、そこで、神様から勇気をいただいたのです。
   「私は人を愛することができる。私にはやるべきことがある。」
   彼女は、自分のサーフィンを通して、人を励ましたいという希望を抱き、ついに全米チャンピオンになることができました。彼女は、神様の励ましによって、自己満足のサーフィンから、人を励ますサーフィンへの希望を見出すことができました。神はベサニーに、愛するというサーフィンの新しい視点をくださったのです。
   この世界には戦争や争いがありますが、初めて宇宙から地球を見たガガーリンは、「地球は青かった」と言いました。宇宙飛行士には、クリスチャンになる人が多いのですが、離れてみると近くでは見えなかった別のものが見えてくるのでしょう。
   神は私達の失敗を益とすることができるお方です。近くで見すぎるとわからなくなることに、神は新しい視点をくださいます。特に家族に対する見方は、近すぎてよく見えなくなることがあるものですが、神は別な視点をくださいます。
   神は私達に別のメガネを与え、「これで見てごらん」と言われます。すると、もうおしまいだと思っていたものが、別の見方ができるようになります。神のメガネで見ると、今までとは全く別の姿に見えるようになるのです。私達にとって、無駄なことなどありません。神はすべてを益とし、用いることができるお方です。

   このように、イエス・キリストの十字架を知ることによって、私達はこのように3つの希望を見出すことができます。