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2013年3月3日
『十字架に死ぬ』

   神は、私たちに御言葉を食べる者になってほしいと願っています。御言葉を食べるとは、御言葉を信じることです。御言葉の中で、神が最も食べて欲しいと願っているのは、十字架に死ぬという言葉です。この言葉を食べられると、大きな平安がもたらされます。
   御言葉を食べるには、まず意味を正しく理解しなければ、食べられません。十字架の御言葉を見ていきましょう。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)

   キリストと共に十字架につけられて死んだ私とは、何を指すのでしょうか。今生きている私は何者なのでしょうか。この御言葉の前半には次のように書いてあります。

『しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:19)

   つまり、十字架につけられて死んだのは、私の中にある律法です。聖書で律法という場合、神の律法と罪の律法の2種類があります。この御言葉は、神の律法によって罪の律法に死んだと説明しているのです。
   罪の律法とは、○○でなければならない、と人や自分を判断する基準であり、争いのもととなる敵意を生み出すものです。その罪の律法をイエス様は十字架につけて廃棄されました。

『ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15)

   罪の律法は、死の恐怖から生まれました。どのように罪の律法が生まれたのか確認してみましょう。

死はどのように人に入り込んだか

   神は人を神に似せて造られました。ですから、アダムとエバは、もともと永遠の命を持っていました。
   神が、アダムとエバに注意したことはたった一つ、園の中央にある木の実を食べると死ぬから食べないように、ということです。神を愛せよとか、隣人を愛せよなどという教えではありません。神の一部である二人にとって、そんなことは命じられなくてもできることだったからです。
   ところが、蛇の姿をした悪魔がエバに近づき、その実を食べても死なないし、むしろ神のようになれると言ってそそのかしました。エバはその言葉を信じて実を食べ、アダムも食べました。そして、二人は死ぬものとなりました。
   死という言葉の本来の意味は「分離」です。神との関係が断ち切られることです。その結果、アダムとエバは永遠の命を失い、肉体は死を迎えるものとなり、神との霊的な関係も断ち切られたため、霊的にも死んだ状態となりました。
   このように、肉体の死と霊的な死の両方が二人に与えられました。

死が彼らに与えた変化

   死を宣告されて恐れを感じるように、肉体の死は二人に恐れをもたらしました。また、突然親から見放された子どもが不安を感じるように、霊的な死は二人に不安をもたらしました。死は私たちに恐れと不安という恐怖をもたらしたのです。これは、今までに感じたことのないものです。恐怖は、二人をどのように変えたのでしょうか。
   もし、スカイツリーの頂上にクレーン車で吊り置かれたら、おそらくすべての人が恐怖を感じ、瞬間的に目の前にある電波塔にしがみつくでしょう。恐怖は私たちを見えるものにしがみつかずにはいられなくさせます。目の前のものが価値あるものとなり、それにしがみついて安心を得ようとします。
   アダムとエバは実を食べた直後、自分の裸に気づいてうろたえ、突然いちじくの葉に価値を見出して、それを取って体を隠しました。いちじくの葉にしがみついたのです。この行動こそ、見えるものに価値を見出し、それを手にして安心を得るというものの見方によるものです。この見方を罪と言います。
   聖書が教える罪とは、悪い行いだけではなく、神以外のもので心を満たそうとする不信仰のことです。見えるもので心の平安を得ようとする生き方です。

罪の力は律法

   見えるもので安心を得るために、人はその価値を計るものさしを作り始めました。基準は人によって異なりますが、こうあるべきという規定を作り、○か×かを判断しています。このように、個人個人が心に作る規定のことを聖書では、律法(罪の律法)と呼んでいます。全ての人は、心の中にものさしを持ち、人を裁く同じ律法で、自分を裁いては自分を苦しめています。このように、私たちを苦しめているのは、罪の律法です。
   例えば、夜中、眠っている時に、暴走族が爆音を立てて走ったら多くの人が腹を立てます。しかしある時、暴走族の騒音被害に対して1回1万円の賠償金を受け取れるという法律が制定されたとします。すると多くの人が、暴走族が来てくれるのを心待ちにするように変わるでしょう。爆音が心に喜びをもたらす音に変わります。爆音に対するものさしが変わったからです。
   また、同じ人物が、ものさしが変わるだけで、英雄から悪人に変わってしまう例は歴史の中で頻繁に見ることができます。
   つまり、私たちが人を憎んだり、腹を立てたりする理由は、相手に原因があるのではなく、それをはかるものさし、すなわち肉の律法にあるのです。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:16)

   死のとげ(恐怖)が、見えるものにしがみつく心(罪)を生み出し、そこから生まれた律法が苦しみを生み出しました。私たちは、律法という眼鏡を通して見るから苦しむのです。この眼鏡は生まれながらにかけられており、すでに私たちのうちに住み着いています。この罪の律法(肉の価値観)が、敵意・争いを生み出し、平安を奪いました。この律法こそ、私たちが十字架で死ななければならないものです。

『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:15〜17)

   死のとげによってもたらされた罪の律法は、神の律法とは正反対の肉の価値観を持っています。この価値観が私たちの中に住み着いているために、善を行いたいのにすることができず、人を愛したいのに憎んでしまうのです。

『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:24,25)

   キリストは、この罪の律法を十字架につけて廃棄して下さいました。神と私たちを断ち切っていた死を滅ぼし、死によってもたらされた罪と罪から生まれた律法という肉の眼鏡を廃棄し、神との関係を回復して下さったのです。これによって悪魔の業は滅ぼされ、私たちは死の恐怖の奴隷から解放されました。
   十字架は、神との関係を回復し再び神の愛を体験させます。神の言葉を食べるとは、罪に気づいて悔い改め、贖いを体験することです。あなたの罪を無条件で赦す神の愛を知り、自分がどれほど神に愛されているかがわかると、全き愛が恐れを締め出します。恐怖が取り除かれると、律法で物事を見る習慣がなくなって、律法の眼鏡がどんどん弱くなります。それが十字架で死ぬということです。キリストは、律法の眼鏡も十字架につけて滅ぼして下さったのです。
   十字架に死ぬとは、自我が死んで良い人間になるという意味ではなく、あなたのものさし、価値観を変えることです。価値観が変わらなければ何も変わりません。聖書は私たちにそのことを繰り返し教えていますが、律法の眼鏡が、御言葉さえも間違った理解をさせて、良い行いを頑張らなければならないと、私たちを苦しめているのです。

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:17)

   キリストのうちにいなかった自分は、すべて過ぎ去って新しくなりました。人間的なものさしでものごとを計っていた自分は十字架につけられて死に、神のものの見方に変えられたのです。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16)

   人間的な標準でキリストや人を見ない、これがキリストのうちにある者です。人間的な標準で見ると、落ち込んだり傲慢になったり腹が立ちます。そのような物の見方をやめて、神の視点で見ることが大切です。これが古い自分に死ぬ、罪の律法の眼鏡をはずすということです。
   キリストは、眼鏡の原因である死を十字架につけて滅ぼし、神の言葉を食べて十字架の愛を体験させ、無条件の愛を与え、平安を与えて下さいます。十字架の愛を体験することで、見えるものにしがみついて安心を得ていた眼鏡をはずすことができ、こうして私たちの中に住み着いていた罪が取り除かれます。これが神の福音です。
   では、罪の律法である人間的標準で見ないために次の3つのことを心に留めましょう。

1.自分をダメだと思わない

   私たちは神の作品であり、素晴らしいものです。その人間をダメだとする根拠は、行いです。行いという見えるものを基準に判断することが、あなたを苦しめている肉の眼鏡の正体です。ダメでないものをダメだと思うのは間違いです。見えるものではなく、神にしがみついて平安をいただけば、見えるものの価値に興味を見いだせなくなります。
   罪は病気です。病気は治せます。病気で自分の価値がダメになるわけではありませんから、回復に向かおうとすれば良いのです。罪のいやしの道は、神の愛を知り、十字架の贖いを知るしかありません。ガラテヤ2:20の言葉を食べると、十字架の贖いも見えてきます。

2.神と私たちとの関係は行いと報酬ではない

   この世界は、期待に応えることで賞賛を得る、行いと報酬の関係で成り立っています。しかし、神と人の関係は決してそうではありません。
   神に対して行いと報酬の考え方をすると、これだけ祈ったのに、こんなに頑張ったのに、なぜ神は答えてくれないのかと、つぶやきやつまずきが生まれます。
   世の宗教は、行い(徳)を高めることで見返りが与えられると教えます。パリサイ人も、行いを頑張れば救いという報酬があると考えました。しかし、私たちが神を信じることができたのは、神の憐れみによるもので、私たちの行いによるものではありません。キリスト教は、神は行いとは関係なく私たちを愛してくださっていると教えます。
   自分の行いを盾に、一方的に神はひどいと言って、つぶやいたりつまずいたりしてはなりません。つぶやきは肉の律法の眼鏡の産物です。

3.人を裁かない

『さばいてはいけません。さばかれないためです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1)

   裁くという敵意は、律法が生み出すものです。人を裁けば裁くほど、自分自身が律法に支配されて、自分を裁くようになります。人の価値をうわべで見るのは、すべて眼鏡が原因です。律法の眼鏡を外さないと、苦しみから解放されません。裁かないとは、眼鏡を使わないということです。律法の眼鏡をはずすために、人をさばくのをやめなければなりません。

   以上の3点を守ることで、私たちの目から律法の眼鏡がはずれて、十字架の愛が見えるようになってきます。あなたの眼鏡をはずし、苦しみから解放して自由にするために、十字架の贖いがあるのです。十字架に死ぬとは、自分の眼鏡(肉の価値観)を十字架につけることです。