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2013年2月24日
『御言葉の食べ方 完結編 十字架の贖いを信じる』

『私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。』(旧約聖書 エレミヤ書 15:16)

   聖書を読んで知識を蓄えることと、神の言葉を食べることとは違います。神の言葉を食べるとは、信じようとすることです。それが、私たちに喜び・平安をもたらします。
   神の言葉である聖書には、多くの言葉があります。その中でも、神が私たちに最も食べさせたい御言葉というものがあります。神は、私たちに何を一番信じてほしいと思っているのでしょうか。それは、神を信じる者は何を目指して生きればいいのか、という問いでもあります。


   私たちは、見えるものが私たちを幸せにすると思い込んでいます。欲しい物が手に入るとか、人々から賞賛や信頼を得られるとか、美しいものに感動するとか、そのようなものを得た時に幸せを感じるのだと思っています。
   しかし、実際はそうではありません。
   私たちが幸せを感じるのは心です。欲しい物が手に入ったから幸せなのではなく、それによって心が何かを信じ、幸せを感じたのです。見えるものが私たちに喜びを与えたのではなく、それによって何かを信じたから喜びを感じたのです。
   心は何を信じたのでしょうか。それは、あなたは「○(マル)」だという情報です。出来事を通して、自分は○だと信じたのです。○とは、あなたは価値がある、愛されている、良いものだ、OKだ、という情報です。
   実は、心が食べられるものは、「○(マル)か×(バツ)」の二つしかありません。人は出来事を○か×かに翻訳し、これは「あなたは○」という意味だ、と信じたら喜びを感じるのです。
   例えば、学生時代を思い出してみてください。あなたには好きな人がいます。ある日、友達から、その人があなたのことを好きだと言っていると聞いたとします。もしあなたがその言葉を信じれば幸せな気持ちになります。しかし、疑って信じることをしなければ、どうせ自分はダメなのだと思うことになります。情報が幸せを与えるのではなく、情報を○だと信じることによって幸せを感じているのです。
   さて、神の言葉には、○という情報、すなわちあなたはOKという情報しかありません。それを信じれば幸せを感じるし、信じなければ幸せではないと感じます。ですから、神の言葉を積極的に食べれば平安になり、神の言葉が私たちを幸せにすることに気づくようになります。
   しかし、私たちは、ともすると、神の言葉を食べるよりも、見えるものを得たほうが幸せになれると思ってしまいます。
   もし、見えるものによって自分は○だという情報を得ようとするならば、自分を良く見せるためにいつも気を遣わなければなりません。すると常に見えるものに左右され、いつも人の目を気にするようになります。それがこの世の心遣いです。
   しかし、神の言葉にこの世の心遣いは必要ありません。神の言葉は常に真実を語り続けます。太陽の光のように誰にでも平等に降り注ぎ続けています。それを受け取るか受け取らないか、信じるか信じないかはあなた次第です。

   人から自分がどう見られるかを基準にする生き方は、結局争いを生み出します。しかし、神の言葉を信じて平安を得る生活をするようになると、見えるものに支配されなくなります。自分を良く見てもらうためにどうすれば良いかということに振り回されなくなります。
   私たちの心は平安を求めています。あなたは○だ、あなたはOKだ、あなたは愛されているという言葉が欲しいのです。それは、そのように造られているからです。大切なことは、その平安とは、人や見えるものから手にするものではなく、神から手に入れるものでなければならないということです。神の言葉は、人の言葉と違っていつも変わりませんから、常に安定した平安を得ることができます。神の言葉を信じられれば、適切な食事をとっている体と同じように健康な心になるのです。

   では、御言葉の中で、最終的に、神が私たちに最も食べてもらいたいと思っている言葉とは、何でしょうか。私たちが目指すべき言葉とは、何でしょうか。

『彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:11)

   この「私もあなたを罪に定めない」という言葉こそ、神が私たちに最も食べさせたい言葉です。この言葉を信じられるようになったら、あなたは変わります。あなたの心に素晴らしい平安が訪れるのです。

   ヨハネの福音書8章に登場するこの女性は、姦淫の現場を見つけられ、人々の前に連れ出されてきました。どれほどの恥ずかしさを感じていたことでしょう。人々はこの女性をさげすみ、「殺してしまえ。」と叫びました。しかしイエス様は、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。この言葉を聞いた群集は、年長の者から順に去っていき、ついに誰もいなくなった後、イエス様はこう言われたのです。
   「私はあなたの罪を赦します。」
   このことを本当に信じることができれば、あなたは変わります。この女性は「あなたの罪は赦された」という、神の言葉を信じました。信じたから変わりました。この女性こそ、ルカの福音書に登場する、感謝して涙ながらにイエス様の足を香油でぬぐった女性です。神を愛する者になるとは、このようなことです。
   私たちは、神を愛し、人を愛する者になりたいと願います。そのためには、多くの罪が赦されたことを信じる必要があるのです。
   「あなたの罪は赦された」この言葉が本当に信じられれば、心に大きな○が来るのです。

   最近ニュースで体罰が話題になりました。人を訓練し変えるためには罰が必要だ、恐れさせることで人を変えようとする考え方は、昔からあります。例えば、鬼の面で子どもを脅す風習や、嘘をついたら閻魔大王に舌を抜かれるという教え、嘘をついたら針千本飲まなければならないなど、恐ろしさを植え付けて、子どもを良くしようという教育が未だに続けられています。しかし、そのようなことで人は変わらないというのが今の常識です。恐れによって、確かに行いは変わりますが、それは人の目を恐れて変わるのであって、本質的には何も変わっていないのです。
   以前、悪さをして手に負えない子どもたちをどのように指導すればいいのか、実際の先生が行った事例を聞く機会がありました。
   教室で子どもたちが騒いでどうにもならないある時、その先生は竹の棒を取り出しました。これまでの先生なら、悪さをした子どもを竹の棒で打ち、罰を与えて収めるところです。みんなが見つめる中、先生は棒を持って騒ぎを引き起こした子どものところに行き、「この棒で私を叩きなさい」と言ったのです。驚く子どもに対して、「あなたの罰は先生が受けるから、この棒で私を叩きなさい」と竹の棒を手渡しました。その子は仕方なく、ちょんと先生を軽く叩くと、もう2度と悪いことをしなくなり、クラスは見違えるように良くなったそうです。
   私はこの話をうかがって、真理は変わらないなと感じました。これは実際にあったお話ですが、なぜこの子どもは変わったのでしょうか。それは、先生に愛されていると感じたからです。心に大きな○を感じたのです。人を変えるのは、愛されているという大きな○です。
   ダメだと打つことでは、人は変わりません。親子の関係も同じです。子どもを恐れで従わせようとしても、その子は親が見ていない先では悪いことをするようになり、関係が悪くなるだけです。人を変えるのはムチではなく愛です。愛されていると知れば、人は変わるのです。

   神が私たちに一番食べて欲しい愛は、十字架の贖いです。私たちは罪を犯し、本来ならば死という罰を受けるべき存在でした。イエス・キリストは、その罪の罰を私に渡しなさい、私を十字架にかけなさい、と言ってくださいました。この十字架の贖いがわからなければ、人は変わることができません。
   主は私たちに、「私はあなたを赦す。あなたを裁かない」と言っておられます。このことがわかれば、人は必ず変わることができます。姦淫の現場で捕らえられたこの女性は、一瞬でそれがわかりました。けれど、私たちはわかっているようで、わかっていないのです。すなわち、信じていないのです。

『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:13,14)

   神ご自身が罰を受けるという、この十字架の贖いがあるから、私たちは罪を問われない――そのことが本当に信じられたら私たちは変わることができます。
   神が私たちに一番食べさせたい言葉は十字架の贖いです。
   行いのことばを食べると、自分の罪に気づくことができます。気づいたら罪を赦されたいという思いに駆られます。十字架の贖いの言葉を信じられたとき、私は赦されたという平安を得ることができます。
   問題にぶつかった時は神が解決してくださるという約束の言葉を食べるなら(信じるなら)、十字架の贖いの理解がさらに深くなります。十字架の贖いを信じられれば信じられるほどに、共におられる神様がわかるようになるのです。

   さて、十字架の贖いは、単に私たちの罪の罰を受けたというだけでなく、さらに深い意味を持っています。
   イエス様は、十字架にかかった後、どうなったでしょうか。磔にされて死んだままではなく、3日後によみがえられました。
   復活したイエス様は、今どこにいらっしゃるのでしょうか。40日間弟子たちと共に過ごした後、天に昇り、神の国に行かれました。
   神の国とは、どこにあるのでしょうか。神の国はあなたがたのただ中にあると、聖書にはっきりと書かれています。(ルカ17:21)
   イエス・キリストは、あなたの中に住んでおられるのです。それは、十字架の贖いによって、神は私たちの中に住まうことができるようになったということです。イエス様の十字架の贖いによって、今まで私たちの中にあった罪という障壁が取り除かれ、主は、私たちの中に住むことができるようになりました。
   十字架の贖いは、あなたの罪を赦すだけではなく、あなたと生きる神をもたらしてくれました。聖書は、私たちの体は神の神殿であり、住まいであると教えています。このことが約束の言葉を食べることで見えてくるようになります。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)

   神が食べてもらいたい御言葉とは、十字架の贖いです。復活したイエス様があなたの中に生きるための十字架です。
   イエス様は私たちと共に生きることを願って十字架にかかられました。キリストと共に十字架につけられて死んだとは、イエス様の十字架によって罪が赦されて取り除かれ、イエス様が私と共に住まわれるようになったという意味です。神の言葉を信じて食べることで、ただ罪が赦されるだけではなく、イエス様が共に生きておられると気づき、それが私たちを勇気づけ、変えていきます。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:14)

   私たちには、十字架以外に誇りとするものはありません。平安は、信じるという作業の結果です。神の言葉をそのまま信じられたらどれだけ大きな○が入ってくるでしょうか。この真の平安こそ、神が私たちに与えたいものなのです。罪を取り除いてくれたイエス様、十字架のイエス様が理解できるようになると、共に生きておられるイエス様がわかります。それがわかれば平安が見えてくるのです。