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2013年2月17日
『御言葉の食べ方 応用編3』

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:11,12)

《前回までのあらすじ》

   私たちが戦うべき敵は、自分の内側にある神の言葉を信じられない不信仰です。私たちは、どうすれば神の言葉を信じることができるのでしょうか。
   御言葉を信じることを、聖書は御言葉を食べると言っています。食物を食べれば成長するように、御言葉によって信仰が成長し、神を信頼する心を育てることができます。
    御言葉には、行いに関する言葉と約束に関する言葉とがあります。行いに関する御言葉を食べるとは、御言葉を実行することです。すると、実行できない自分の罪に気づきます。そこで神の赦しを求める信仰が働くのです。
    約束の御言葉を食べるとは、神の約束を信じることです。これはつらさを感じた時にしか食べることができません。なぜなら、困難の時やつらさを感じている時に神の約束の言葉を信じようとすると、「本当だろうか」と、信じられない自分の罪に気づくことができるからです。
    神の言葉を信頼できない不信仰こそ、あらゆる罪の根本原因です。神を信頼せず見えるものに頼って平安を得ようとするために、競争心やねたみや憎しみが発生し、そこから悪い行いが生まれるのです。
    罪を悔い改めるとは、表面的な罪を反省してごめんなさいとあやまることではなく、不信仰の状態から神の言葉を信じる方向に、心の向きを変えることです。本当に自分の罪深さを知り、贖いを信じることができたら、どんな喜びにもまさる喜び・平安を体験することができます。

   約束の言葉を食べる、それは、ただひたすら単純に、神の言葉を信じる戦いです。聖書は、神の言葉を信じるために、3つのことを教えています。

1.言葉が持つ力を知る

   車を制御するのは、エンジンではなくハンドルです。小さなハンドルで車全体の進む方向をコントロールしています。同様に、人間をコントロールしているのは、言葉だと聖書は教えています。

『馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船をみなさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きな森を燃やします。』(新約聖書 ヤコブの手紙 3:3〜5)


   ですから、神の言葉を信じたいのならば、自分が信じたいと思うことを語らなければいけません。通常、試練にぶつかると、「つらい」「もうだめだ」といった否定的な言葉を語りがちですが、そのような言葉を語っても試練から脱出することはできません。約束の言葉は患難にぶつかった時のための言葉です。つらい状況から脱出したければ、神の約束の言葉という希望を語りなさい、と聖書は教えています。

『そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。』(新約聖書 へブル人への手紙 10:22,23)

2.過去形で告白する

『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(新約聖書 マルコの福音書 11:24)

   困難に打ち勝つ戦いは、不信仰に打ち勝つ戦いです。あなたが神に願うものは、すでに受けたと信じなさいと、主は言われました。

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:10)

   信じたことは、口で告白しなければなりません。
   「主はすでに私の願いをかなえてくださった」と告白することで、信仰は確かなものとなり、信じることができるようになります。信じるならば、神が用意してくださっている素晴らしい結末を見ることができます。信じる戦いとは、告白です。
   試練のただ中で、「主は私を助けてくださった」と告白して祈った人物が旧約聖書に登場するヨナです。ヨナは、神様からニネベに行くように命じられましたが、その命令を不服に思って、従わずに逃げ回った結果、船から海に放り出されて大きな魚に飲み込まれてしまいました。ヨナは3日間、魚の腹の中にいましたが、ついに神に助けを求めざるを得ない状況に追い込まれ、ギブアップして、神に助けを求めて祈りました。

『ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。
・・・・・・しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。』(旧約聖書 ヨナ書 2:1〜10)


   彼はまだ魚の腹の中にいるときに、「神は私を助け出してくださった」と告白して祈ったのです。ヨナは本気で信じました。私たちも、神様に対して、「もしできればお願いします」ではなくて、「神にはできる」と信じて告白することが必要です。
   へブル12:4に、「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」とあります。罪とは、不信仰のことです。最初から信仰の戦いをあきらめて、「もしできるなら」と言い続けてはいないでしょうか。イエス様は、病気の息子をいやしてほしくて、「もし、できるなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言った父親を厳しく戒められました。(マルコ9:23)
   最初から、信じようとせず、約束の言葉を食べることをあきらめてはいないでしょうか。神は叶えてくださったと信じて告白しましょう。神は必ず答えて結果を出してくださいます。

3.行動する

   約束の御言葉を食べるには、告白だけで終わってはいけません。信仰は、行動しなければ確かなものになっていかないからです。神は脱出の道を備えてくださいますが、それを信じて脱出の道を探し出し、その道を進まなくてはならないのです。

『イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。』(新約聖書 マタイの福音書 9:1,2)

   中風というのは大変難しい病気で、当時の医学では不治の病でした。人々は、いくらイエス様でも直せないのではないか、本当にいやされるだろうかという疑いを持ったことでしょう。病はいやされるという主の言葉を信じ、いくら信じますと告白しても、彼をイエス様のもとに連れて行かなければ何も起こらなかったでしょう。
    信じるならば、信じる行動が必要です。彼らは、イエス様は癒すことができる、と本気で信じていました。
   ところが、イエス様は、この人の病気を直しませんでした。直すことができなかったのではありません。「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。
    これは、見えるものに価値を置く価値観で考えると、ちょっとわからない論理です。しかし、イエス様が私たちに最も与えたいものは、神を信頼する心がもたらす平安、すなわち信仰です。この信仰を持たないこと=不信仰を罪というのです。ですから、「罪が赦された」とは、不信仰が取り除かれた、神の言葉を信じることができた、という宣言なのです。
    イエス様は、彼らの中に神の約束の言葉を食べることができた者の平安をご覧になりました。癒されたかどうかにかかわらず、彼らは、神の約束が信じられた平安を持っていたのです。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)

   この御言葉は、旧約聖書に登場する信仰者たちについて書かれたものです。数千年に渡る時の中で、神を信頼して生きたこれらの人々が共通して手に入れていたのは、信仰による平安です。彼らは、望んでいた見えるものが与えたかどうかとは関係なく、神の言葉を信じて、平安を得ることができました。
    神は、私たちに神の言葉を信じられることで手にする真の平安を与えたいと思っておられます。それは、世が与える平安とはまったく違うものです。
    キリスト教は、ご利益宗教ではありません。人間の欲望によって変わるようなもの、時によって変化するようなもの、失われ、消えてゆくこの世のものを得ることが本当の恵みではありません。
    神は言葉としてこの世にこられ、言葉として私たちの中に生き、言葉として私たちに平安を与えてくださる方です。

    さて、イエス様が中風の人に「罪は赦された」と宣言されたことに対して、「この人は神を汚している」と言って、つぶやいた人々がいました。イエス様はそれに気づき、その人たちに対して、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか」とお尋ねになりました。
    「罪が赦された」と口で言うだけなら簡単です。病気を癒すことは難しいに決まっています。そして、イエス様は彼を癒されました。彼のためにではなく、疑う人々のために癒されたのです。イエス様が奇跡を行うのは、それ自体が目的ではなく、奇跡によって神を信じるようになるためです。イエス様は、「たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。」と言われました。(ヨハネ10:38)主は、見えるものを与えて喜ばせるのではなく、神を信頼できる信仰を与えたいと願っておられます。
    親が子どもに残すことのできる最大の遺産は信仰である、と内村鑑三は言いました。どんな財産を遺しても、いつかはなくなります。しかし、試練の時に本当に助けになるのは信仰です。真の信仰こそ宝です。

   神にとって、見えるところで喜ばせることは簡単です。しかし、それでは信仰は育ちません。主は、どんな患難のなかにあっても平安を得ることができる信仰を私たちに与えたいのです。ご利益を求める信仰から、信仰を育てる信仰に成長させたいのです。どんな状況にあっても、これさえ持っていれば平安でいられるのですから。
    この信仰は、何もしないで待っていたのでは決して手に入ることはありません。行動することで私たちは、神の言葉に対して確信を持てるように変わっていきます。