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2013年2月3日
『御言葉の食べ方 応用編1』

   御言葉を食べる目的は、神を信頼する心を育てるためです。御言葉を知っていることと、御言葉を食べることでは大違いです。御言葉の知識があっても、神への信頼が育たなければ、平安を得ることはできません。
   御言葉は大きく二つ、「行いに関する御言葉」と「神の約束に関する御言葉」に分けることができます。
   「行いに関する御言葉」は十戒に代表されるような、何をすべきで何をすべきではないかを教えた神の命令です。これらの御言葉は、神に従おうと決心しても実行できない自分を発見するための御言葉と言えます。神は、私たちが御言葉を実行して誇るのではなく、実行できない自分に気づいて赦しの恵みを受けることを願っておられます。
   「神の約束に関する御言葉」は、「恐れるな」「あなたの罪は赦された」「求めよ、そうすれば与えられる」「試練とともに脱出の道が用意されている」など、信じることで心に平安が与えられる御言葉です。
   一般に、「約束の御言葉」は耳障りよく聞こえ、「行いの御言葉」は厳しく聞こえるものですが、いざ従おうとすると、「約束の御言葉」を信じるほうが、はるかに難しいことがわかります。
   今週は「約束の御言葉」をどのように食べれば良いかについて学んでいきましょう。


神の約束の御言葉を食べるには

   両者の最大の違いは、食べることができる時期です。「行いに関する御言葉」は、いつでも食べることができます。しかし、「神の約束に関する御言葉」は、患難(つらさ)に出会った時にしか食べることができないのです。
   「行いに関する御言葉」は、いつ食べても、実行できない自分を発見して、罪に気づき、悔い改めを通して神と交わることができます。
   「約束に関する御言葉」は、平時に読んでも、「あぁ、いい言葉だなぁ」という感動を覚えるものですが、つらさに出会った時にこそ、その力を発揮します。人はつらくなると、なんとかそのつらさから脱出しようとして、「神が助ける」と言っているその言葉に、必死にしがみつこうとするからです。
   つらさとは、人生における思いがけない出来事ばかりではなく、御言葉に従えない自分を発見した時にも、つらさを感じることができます。人間は、つらさを感じなければ、神を信じようとはなかなか思わないものです。つらさを感じることが、約束の御言葉を食べる上で、必要不可欠なのです。
   御言葉に従えない時、「これくらいの罪はたいしたことがない」と思ってつらさを回避すると、神の恵みを受け取ることができません。聖書は、「罪に大小はない」と教えています。どんな罪も、もとを正せばたった一つ、神を信頼しない不信仰という根から発生しています。神の前には不信仰という罪しか存在せず、その罪の刑罰も死しか存在しません。こうして、たいしたことのない罪などないとわかると、私はなんという罪人なのかと大変なつらさを感じるようになります。
   このような正しい理解のもとに御言葉に従おうとすると、従うことができないみじめな自分に気づきます。正しいことをしようと意気込み、神が教えてくださる正しさに賛同したのに、実際にはできないみじめな自分に気づいて、つらさを感じます。そして、私たちは「約束の言葉」に従って、神が助けてくださるという御言葉にすがるのですが、次に「本当に助けてくれるのだろうか」と信じきることができない自分の弱さに出会います。神を信頼することができれば楽になるのに、神への信頼すら貫くことができない自分のみじめさに打ちひしがれると、私たちはただ「神様、こんな私を助けてください」と祈るしかありません。その結果、神はこんな私を愛しておられる、助けてくださると信じることができるようになり、平安・感謝・喜びをつかむことができます。信仰はこのように成長していくのです。
   つらさを感じることがなければ、信仰は成長しません。つらさを感じたときに、「約束の言葉」を食べることで、神への信頼が育ち、どんなことにもゆるがない平安を手に入れることができるのです。
   ところが、多くの人が、「約束の言葉」を食べなければいけない時に、食べることができないでいます。なぜでしょうか。


なぜ約束の言葉を食べることができないのか

1.つらさは神の罰だと思うから

   神の言葉を食べることができない一番の原因は、つらさを感じた時に、「これは神の罰だ。自業自得だから仕方がない」と思って、神の助けを求めようとしないことです。罰ならば甘んじて受けるしかなく、神の言葉を食べる必然性がないからです。
   しかし、罪の罰は死であり、それ以外の罰は存在しません。そして、イエス・キリストを信じる者には、すでにその罰は無効とされました。なぜなら、イエス様が十字架で死んでくださり、私たちが受けるべきすべての罪の罰を代わりに受けてくださったからです。イエス・キリストを信じる者に罪の罰は存在しません。

『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:13〜14)

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1)

   神は、訓練として試練を用いることはありますが、罰を与えることは絶対にありません。つらさを神の罰と考えることで、せっかくの信仰を育てるチャンスを棒に振ってしまうのです。つらさは、罪の罰ではなく、信仰を成長させるチャンスです。

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2,3)

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3,4)

   神が患難を喜ぶように教えているのは、患難を通して信仰が育つからです。このことを正しく理解しておかないと、「約束の御言葉」を最後まで食べ続けることができません。

2.出来事がつらさの原因だと思うから

   私たちは、つらいと感じることがあると、その出来事がつらさの原因だと考え、まず出来事を解決しようとします。出来事の解決に取り組むのは良いのですが、それでつらさを解決することはできません。
   なぜなら、つらさの本当の原因は、神の言葉ではなく人の言葉を信じたことにあるからです。神は「大丈夫だ、あなたを助ける」「あなたは尊い」と言っておられるのに、あなたが心の中で人の言葉や状況を優先して信じているため、つらいと感じるのです。
   つらさから逃れるために、人から心地よい言葉を引き出そうとすると、ますます神を信頼する方向からずれていきます。しかし、たとえ人から良い言葉をもらっても、私たちの心に平安を与えることができるのは神の言葉だけですから、神の言葉を信頼することができなければ、つらさを解決することはできません。
   神を信頼する、すなわち、イエス・キリストとの関係をしっかり築いていないと、つらさを感じるのは当然です。ですから、つらいと感じたら、その時こそイエス様との関係を築くチャンスです。神様助けてくださいと神に心を向ければ良いのです。

『イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。』(新約聖書 マタイの福音書 8:23〜26)

   弟子たちは暴風雨が起きた時、不安というつらさを感じました。ところが、同じ時イエス様は眠っていました。暴風雨は、イエス様をつらくさせることも、不安にさせることもできませんでした。ここから、出来事が私たちをつらくさせているのではないことがわかります。
   不安に陥った弟子たちに対して、イエス様はその不安の原因は信仰にあるとはっきり言われました。つまり、神との関係が不十分なため、神を信頼できないことが、つらさの原因だと言われたのです。
   私たちがつらいと感じる本当の原因は出来事ではありません。神との信頼関係を強く育てることでつらさから解放されます。しかし、もし出来事を解決することでつらさから逃れようとするならば、せっかくの神の言葉を食べるチャンスを棒に振ることになるのです。

3.信仰と忍耐がないから

『それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 6:12)

   約束のものを手にするには、信仰だけでなく忍耐が必要です。信仰を働かせて、約束の言葉を食べ始めても、解決に時間がかかると、途中であきらめて、神を信頼するのをやめてしまうことがよくあります。問題が困難であればあるほど、脱出に時間がかかります。しかし人は、神が考えておられる計画と答えが見えないために、途中であきらめ、投げ出してしまうのです。
   神のお考えを理解することができる忍耐と信仰は、どのように養えば良いのでしょうか。
   それは、普段から御言葉に従う生活をすることが鍵となります。普段の生活で御言葉に従い、悔い改め、赦しの恵みを受け取る習慣を育てることで、信仰と忍耐が育ち、いざという時にも、約束の言葉を食べることができるのです。
   イエス様はたとえ話の中で、御言葉の土台がない信仰は砂の上に建てた家のようだと言われました。(マタイ7:24〜27)土台のない信仰は困難という嵐に出会うと、いっぺんで崩れてしまうのです。御言葉の土台、それは毎日の生活の中で、神の言葉に従おうという姿勢によって築くものです。

   かつてエジプトで奴隷だったイスラエル人は、神の約束の言葉を信じてエジプトを脱出しましたが、最後まで信じきることができず、約束の地に入れませんでした。脱出の旅はエジプトでの生活よりも過酷で、その上、ゴール目前に約束の地を偵察に行った仲間から、その場所はすでに力の強い民族が治めているためとても勝ち目はないと聞かされて、神を信頼するのをやめてつぶやいてしまったのです。この時、ヨシュアとカレブだけは、神が必ず助けてくださるから大丈夫だ、と主張したのですが、人々はこの信仰の言葉に耳を貸しませんでした。その結果、旅は40年の長きに渡るものとなり、つぶやいた人々は約束の地に入ることができませんでした。(民数記13,14章)
   これは、旧約時代の最も大きな出来事であり、新約聖書でも何度となく取り上げられています。
   彼らが、約束の言葉を信じて出発したにもかかわらず、最終的につぶやいてしまったのは、日頃から神に従っていなかったためです。
   ですから、御言葉を聞いたら、素直に実行することが大切です。御言葉を実行し、罪に気づき、悔い改め、赦され、感謝し、従うことを繰り返すことで、忍耐と信仰が養われていきます。普段から御言葉に従う姿勢が重要なのです。どんなことがあっても途中でギブアップしないで、約束の御言葉をしっかりと食べ続け、神の安息を手に入れましょう。