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2012年11月18日
『平和の福音の備え』

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:11〜15)


   私たちが立ち向かうべき悪魔の策略とは、間違った価値観と恐れであることを、今日までシリーズで学んできました。聖書の教える真理の帯とは、神の御言葉すなわち聖書であり、正義の胸当てとは、イエス・キリストの十字架の贖いです。この二つを正しく理解することで、間違った価値観や恐れと戦うことができます。
   神は、続けて「平和の福音の備え」を履くように教えています。「平和の福音の備え」とは何でしょうか?これが、私たちを守る戦いの武器になるとは、どういうことなのでしょうか?
   次の御言葉から、平和の福音の備えについて知ることができます。


『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:14〜17)


   私たちは、神との関係を断ち切られた状態で生まれてきました。それは、犯した罪の性質を受け継いで生まれてくるためです。しかし、本来、人は神とともに生きるように造られたものです。神は、その本来の姿を取り戻そうと考えられました。それは、神との平和を取り戻し、神と一つになって生きる姿です。そのために、キリストは十字架に掛かり、罪を取り除いてくださったのです。これが救いであり、平和の福音です。私たちが神に対して何かを行った代償として与えられるものではなく、神が私たちを愛するがゆえに、一方的にしてくださった恵みです。


   私たちが人生の中で、最もしておかなくてはいけない備えとは何でしょうか?多くの人は将来のため人生の成功を求めて、学歴や出世や自分の能力を磨くことを求めています。
   しかし、人間の本来の姿なくして、うわべを整えていったところで、本当の平安を得ることはできません。神は私たちに平和の福音を備えよと言われます。人間の本来の姿・・・神との関係を回復することが、最も重要な備えなのです。
   そして、すでに神との関係を取り戻したクリスチャンに対しては、それは伝道を意味します。この備えをすることが、敵と戦う武器にもなるのです。


   キリスト教でいう「救い」とは、単に心が救われるというような一時的な感情ではなく、創造主である神との関係が回復することです。
   日本の学校で進化論を教えているために、創造主と言われてもわからない方が多いでしょう。しかし、学校で教わることのすべてが正しいわけではありません。ほんの500年前まで、科学者たちは地球は平らだと信じていましたし、その後も長い間、天動説(地球が回転するのではなく星が動いているとする説)が科学の常識でした。


   しかし、その間、聖書はただの一度も変更されていません。いえ、5000年以上前から、一字一句変えられたことがありません。
   通常、経典と言われるものは、時代によって変更されるものです。しかし、聖書は時代の常識に攻撃されながらも、その内容は変更されず、むしろ科学の発達によって、聖書の記述が正しいことが証明されてきました。
   例えば旧約聖書に出てくるノアの方舟のサイズは、神によって細かく指定されています。これは近年の海洋学の発達とコンピュータを駆使して導き出した現代のタンカーが最も転覆しにくいとされている黄金比率とまったく同じなのです。何千年も前に人がどのようにしてこのような比率を知り得たでしょうか。神から与えられた知恵であると考えざるを得ません。


   私たちは、人間は猿から進化したと教わりましたが、まもなくその常識が変わる時代が必ず来ます。今、科学の世界では、インテリジェント・デザイン論(この世界は知性ある何かによって設計されたとする説)が注目されています。遺伝子の発見によって、進化論の不合理性が明らかになり、アメリカで議論が始まり、オーストラリアでは学校教育にも取り入れられています。
   19世紀、特に共産主義の国々で進化論という考え方が受け入れられ、キリスト教を攻撃するようになりました。ところが20世紀になって共産主義の考え方は次々に行き詰まりを見せ、むしろキリスト教を信じる人が増えてくるようになりました。今やアフリカの多くの国がキリスト教国となり、アジアでも韓国では4割、中国でも1割の人がキリスト教を信じています。
   なぜ人々が聖書を信頼するのでしょうか。それは、真実が書いてあるからです。


   聖書は私たちを苦しめている問題の本質を明確に教えています。人間は安心、平安を求めていますが、何によって平安を手にするかが問題です。見えるものが平安の材料になっているとき、これが私たちを苦しめていると聖書は教えています。
   名誉や出世やお金によって平安を得ようとすると、比較・競争が生まれ、争いが生まれます。いっときは平安が手に入るかもしれませんが、長続きせず、むしろ苦しみが多くなります。例えば、結婚したら誰もがいっときは幸せを感じますが、その後、相手に期待し、見返りを求め、相手が自分の願いに答えてくれないと感じると争いが生じるようになります。お金も私たちに一時的な平安をもたらしますが、お金に頼れば頼るほど、実は不安と争いが増し、私たちを苦しめます。
   見えるものに見返りを求めて頼りにすることを、聖書では不信仰と呼び、見えるものではなく神を信頼することからくる誠の平安を、神は与えようとしておられます。ですから、神は、私たちが見えるものにしがみつこうとするその手を離させようと考えます。なぜなら、見えるものにしがみつくことが罪だからです。聖書が教える罪とは、悪いことをすることではありません。見えるものにしがみつく結果、悪いことをしてしまうのです。罪とは、神を信頼しないことです。神はそれを取り除き、誠の平安を与えたいのです。これが平和の福音です。


   聖書は私たちに福音を語るように教えていますが、それを実行しない理由として、私たちはよく次のような言い訳をします。「こんなことを言ったら嫌われるのではないか。」「どうせわかってもらえないだろう。」「忙しい。他にするべきことがある。」


   かつて、日本はキリスト教をヤソと呼び、禁止する鎖国政策をとっていました。5人組という制度を作り、互いに監視させ、江戸末期になると、キリシタンになったりかくまったりした場合は、親戚一同部落に追放されました。明治になっても、ヤソが嫌われる時代は長く続き、そのような迫害の風土のため、私たちは今もキリスト教を宣べ伝えることに抵抗を感じ、伝道に二の足を踏んでしまうのです。しかし、この伝道をためらう姿勢こそが、私たちを苦しめている罪の正体です。御言葉に従わない自分の姿から目をそらし、神との関係を深く築くことを避けるなら、本当の平安を手にすることはできません。自分の弱さ・罪を神の前に差し出し、助けを受けることで神との深い関係を築き、ますます平安を得ることができるからです。平和の福音の備えを履くこと、すなわち伝道は平安を得るために素晴らしい恵みをもたらします。


『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:23)


1.自分の罪が明らかになる恵み

   御言葉が結ぶ実とは平安です。しかし、世の心づかいや富の惑わしによって、聖書の言葉を信じることができないから、平安を得ることができないのだと聖書は教えます。世の心遣いや富の惑わしが不信仰という罪の正体です。人からよく思われることやお金によって、平安を手にしようとしていないでしょうか。この世の価値観では、これが平安を得る当たり前の手段なので、私たちはなかなか自分の罪に気づきません。
   しかし、伝道しようとすると、否定的な思い(世の常識)と、富の惑わしが伝道したい思いを邪魔することに気づきます。自分の中の罪が明らかになれば、あとはその罪を神に差し出して赦しを得、神との信頼関係を築く道が開けるのです。


2.自分の力ではできないことを知り、祈るようになる

   伝道しようとすると、必ず困難や迫害にぶつかります。聖書は絶えず神に祈り、重荷を神に委ねるように教えています。ところが、人は自分で頑張るから大丈夫、と言って神に助けを求めようとしません。神を頼るのは弱い人間のすることだと思っています。しかし、聖書はあなたは弱い人だと教えています。強い人などいないのです。弱いから見えるものにしがみついているのです。弱いのが本来の姿であり、悪いことではありません。あなたに必要なのは私だと神は繰り返し教えておられます。
   伝道すると自分の弱さを目の当たりにし、神に祈らざるを得なくなります。聖書は、患難や試練にであったら喜べと教えていますが、それは、私たちが祈るようになるからです。神を信頼することの素晴らしさに気づくと、神から来る平安に気づくようになります。


3.私たちの本来の姿を回復する

   私たちはもともと神の体の一部です。人は、自分の体の強い立派な器官よりも、弱い器官こそ大切にするものです。あなたが自分の弱さを嘆くとき、神は弱いあなたを大切にすると教えられます。体に無駄なパーツがないように、私たちも決して無駄な存在の人はいません。伝道することで、私たちは、自分の弱さ・本来の姿に気づくのです。


   キリスト教の救いとは、神と関係を回復すること、神と一つになることです。これが、永遠のいのちをいただくということです。キリストによる救いを受け入れることで、神の国に入ることができるようになります。私たちの人生は死んで終わりではありません。永遠のいのちをいただいて神の国に入る人とそうでない人がいるのです。


『皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。』(新約聖書 使徒の働き 4:10〜12)


   イエス・キリスト以外には誰によっても救いはない、これがキリスト教の根幹です。どの宗教を信じても行き着く先は同じなのではありません。死んで神とともに永遠に生きる道は、イエス・キリストを信じる道しかありません。
   2000年前にローマ帝国がつぶそうとしたキリスト教がなぜ世界を変えたのでしょうか。まことの喜びがなければ、こんなことは起こりません。単なる知識やイデオロギーでは人は変わらないのです。キリスト教は、人を変え、世界中に広がっていきました。
   私たちは、このキリストの御名を伝え、誠の平安を伝える者です。キリストを信じることによって平安を手にすることを知り、イエス・キリスト以外に救いはないことを知ったから、それを伝えていくのです。
   人は弱い存在です。自分が弱いものであることを認めたら、何に頼るのかが重要です。それとも、これからも見えるものにしがみつき弱さをごまかして生きていくのでしょうか。この選択によって、人生が大きく変わります。キリストを信じて生きてみよ、と神は言われます。