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2012年10月21日
『恐れを使わせない』

   私たちの感情の中には、すでに恐れがたくさん貯まっています。今回は、その恐れを使わせないという話をしたいと思います。
   恐れは、潜在意識の中に隠され、通常意識の中には出てきません。それは地面に隠れた植物の根のようなもので、恐れを認識することは難しいのです。でも、それでは、恐れを使わせないようにしようとしても、恐れを使っているのかさえ分かりません。
   しかし、植物の根というのは、その植物が地上でどんな姿をしているか特定できれば、それを辿っていき、見つけることができます。同様に、意識できない恐れからどんな行為が生じるかを特定できれば、自分の中にある恐れに気づくことができます。では、恐れはどんな行為を取らせるのか探っていきましょう。


   それを特定するためには、神に近づく道のりを思い出すことです。人は、どのようにすれば神に近づくことができるのでしょう。神に近づく第一歩は、御言葉に従い、罪に気づくことです。次に、気づいた罪を神に差し出し、赦しの恵みに預かることです。罪とは、神との間を邪魔するものですから、どうしてもこれを取り除かなければ、神に近づくことはできません。また、罪を赦されることで愛されているという体験を積むことができます。この体験によって、神に近づくことができるのです。つまり、神に近づく唯一の道は、罪に気づいて、罪を差し出すことです。そうすれば、神がそれを赦してくださり、神に近づけてくださるのです。
   神の愛を体験しなければ、人は神を愛し、神に近づくことはできません。愛を体験するには、たくさん悔い改めることです。聖書に、多く赦された者は多く愛するようになると書かれているとおりです。


『だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(新約聖書 ルカの福音書 7:47)


   もしあなたが、私はあまり悪いことをしてこなかったから、赦される罪が少なくて、あまり神を愛することができないのではないかと考えているのでしたら、何の心配もいりません。神の言葉を真剣に実行してみれば、自分が罪人であることがすぐにわかります。神の言葉を信じようとすれば、信頼しきれない罪に気づきますし、「あなたの敵を愛しなさい」という御言葉を実行すれば、それができない自分にすぐに気づきます。私たちの心には、良心が備えられていますから、誰でも、罪に気づくことはできるのです。
   しかし神に近づく上で罪に気づくことよりも、もっと重要なことは気づいた罪を神に差し出すことです。どうでしょう。あなたは今まで罪に気づくたびに、何の抵抗もなく、神に罪を悔い改められたでしょうか。罪に気づいても、なかなか罪を悔い改められなかったのではないでしょうか。なぜなら、そこには、恐れが働くからです。恐れが働いて、かたくなな態度を取らせてしまうからです。このかたくなな態度こそ、恐れが地上に生えさせる植物なのです。


『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4〜5)


   「かたくな」とは、自分は正しいとして、主張を曲げないことです。聖書の言葉は正しいということがわかっても、かたくなな心が、自分の罪を認めて神の前に差し出すことを拒否させます。自分の罪を差し出すことができないのは、神を恐れている現れです。つまり、私たちが意識できる「恐れ」の形は、かたくなな態度なのです。


   しかし、恐れの形が、かたくなな態度だと言われても、まだそれでは、立ち向かうべきものが漠然としています。ですから、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
   自分は正しいとする「かたくなな態度」は、逆に言うと、「自分は悪くない」と主張する態度でもあります。自分は悪くないという態度を、一般的に「自己防衛」といいます。いくら神が罪を赦してくれると分かっていても、罪を認めれば罰が待っていると恐れて自分を守ってしまうと、悪いことをしている自分に気づきそうになった時、なんとか罰を回避するため、自分は悪くないということを証明しようとします。人は、自分が悪くないことを証明するとき、その一番手っ取り早い方法として、人をさばくという行為を用います。この人が悪いのであって、自分は悪くないと言うのです。しかし、さばくことは、かたくなな態度を成長させ、恐れを栽培することになります。ですから、さばくことをやめなければなりません。
   このように、かたくなな態度というのは、人をさばくという特徴があります。さばく心は、つぶやきから始まります。つぶやき→つまずき→許せない→さばくと成長します。これらはすべて「自分は悪くないのに」という思いが根底にあります。つまり、恐れを使わないというのは、具体的には、かたくなな態度の現われである、つぶやき・さばくという行為を避けるということなのです。


   悪魔の目的は、私たちが平安を得ることがないよう神に近づかないようにすることです。そのために私たちの中にある恐れの感情を利用します。ですから、自分の中にある恐れと戦うことが悪魔との戦いです。恐れはかたくなな心を育て、神との距離を作ります。かたくなな心は、一朝一夕にできたものではありません。かたくなな心の育ち方を知ることで、早い段階でかたくなの芽を摘むことができます。具体的には、かたくなな心から生じる、人をさばく心やつぶやきを、神の前に差し出すことで、恐れと戦うことができます。


   では、こうしたことを、今度は、聖書の具体的な出来事を通して学んでいきましょう。
   イエス様には大勢の弟子がいましたが、最後まで残ったのは、12弟子を含めてごくわずかです。なぜでしょうか。
   ヨハネ6:60〜65を見ると、イエス様が聖餐式の話をした時に、多くの弟子たちがそのことばを理解できず、つぶやいたと書いてあります。イエス様はそのことをご存知でしたので、さらに話をして聞かせましたが、結局彼らは自分が間違っているとは思えず、つぶやいて、イエス様について行くのをやめました。つぶやきが、神へのつまずきとなり、神との関係を拒否したのです。
   彼らは、頭ではイエス様が愛の方だとわかっていても、心ではわかっていなかったため、イエス様が自分には理解できないことを言われたとき、神の言葉を否定するほうを選びました。
   現代でも、多くの人が、「聖書はそう言っているかもしれないが、私はそう思わない」と、神の言葉を否定します。自分の間違いを認めると不利益を受けてきた社会での経験が、神に対するイメージを狂わせ、つぶやきを優先します。


   かつて、エジプトで奴隷だったイスラエル人は、神が立てたモーセという指導者によってエジプトから脱出することができました。ところが、目的の地を目指す旅の途中、旅の辛さから、イスラエル人は何度となく文句を言ってつぶやきます。
   つぶやく行為は、神との関係を拒否させます。なぜなら、つぶやきは不信仰の現れであり、不信仰は神との関係の障壁となる罪だからです。イスラエルは、つぶやくことによって、神との関係をなくし、平安=安息を失ってしまいました(民数記14章参照)。このように、私たちが何気なくつぶやく言葉は、知らず知らずのうちに神との関係を拒否させる恐ろしいものです。


『また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:10)


   つぶやき・つまずき・赦せないという思いは、一見相手が悪く自分が正しいように見えますが、そのことで自分と神との関係を完全に閉ざしてしまっているのです。つぶやきは、「自分は悪くない」つまり「私は罪人ではない」という宣言と同じなのです。主は、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:7)と言われましたが、もし私たちがつぶやくなら、「イエスさま、私はあなたを必要としません」と言っているのと同じです。


『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10〜11)


   サタンの策略は、恐れを心に植え付け、まず、つぶやきを生じさせます。そのつぶやきが、つまずき→傷ついた→許せないというように成長し、憎む心を育てます。ここまで成長すると、もう神の言葉がなかなか心に入りません。憎む相手のことしか考えられなくなるのです。サタンの策略は、このように巧妙に神との関係を築かせないようにさせます。日常生活の中で、つぶやきから抜け出す練習をしましょう。


   聖書は、つぶやくなと教えると同時に、人をつまずかせないように(つぶやかせないように)教えています。ところが、このみことばを逆手にとって、つまずいた自分ではなくつまずかせた相手が悪い(あるいは、つまずいた自分も悪いがつまずかせた相手も悪い)と人を責める人がいます。これも、さばくことによって、自分の正しさを主張し、神との関係を拒否していることに変わりありません。つまずきは、あなたと神の関係を妨げます。まず、あなたと神の間の障壁を取り除けなくてはなりません。


『兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:10)


   つまずく人・つぶやく人とは、兄弟を愛していないのです。それは、神の命令に従っていません。私はこんな人愛せないし、愛する必要もないという宣言です。つまり、神の命令に従う気はないと言っているのと同じことです。つまずかせた相手をさばくのではなく、神との関係を取り戻しましょう。神の前に「私は人が愛せないようです、助けてください。」と祈ればよいのです。


『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5:18)


   十字架の贖いがなくては、すべてのことについて感謝できません。これが正義の胸当てです。神が私に何をしてくれたのかがわかればわかるほど、自分に人を裁く資格はないと知ります。神は、すべてを益とするからつぶやくな、感謝せよと繰り返し教えています。そうすることで恐れを摘み取ることができるのです。つぶやきを早い段階でどんどん抜いて、感謝しましょう。