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2012年9月23日
献堂記念礼拝 『確認』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 4章12節)
   先日、尖閣諸島の問題で、中国で日本人に対する暴動が起きました。この報道にはいろいろな捉え方がありますが、もし、私たちが中国で教育を受けていたら、同じようにボイコット運動に参加したでしょう。反対に、もし彼らが日本で教育を受けていたら、このような運動には参加しなかったでしょう。

   つまり、私たちが受ける情報によって、私たちの行動が左右されるということです。中国では、端から帝国主義の日本が勝手に侵略したという教育がされています。ですから、多くの日本人は、彼らが正確な情報を知れば、このような問題は起こらないのにと考えています。日本は中国に対して、確かに悪いこともしてきましたが、多くの援助もしてきました。中国の方々がその事実を確認してくれることを望みますが、ただ、私たちも、一つ一つのことを、自分の目で見て、本当に真実かどうかという確認をしているかといえば、多くの場合そうではないでしょう。そうした自分たちの行動を見ても分かるように、中国の方々が確認しないからということで、安易に人を批判できないということも分かるはずです。


   いずれにせよ私たちはこうしたことから、事実を確認する作業がいかに大切かということを学ぶことができます。確認作業を怠るととんでもない事態を招きかねません。人というのは言われたらそのままその情報を信じる選択を簡単にしてしまいます。こういうのをマインドコントロールといいます。このような問題は、確認作業をすることで解決していくしかありません。自分の信じている情報が本当に真実なのか、確認することは実に大切なのです。


   さて、「みにくいアヒルの子」という有名な童話をご存じでしょうか。 あるとき、アヒルの兄弟の中に1羽だけ他のひなとはまったく違う灰色の鳥が生まれました。誰もその鳥がアヒルだということを疑わず、本人もアヒルだと教え込まれてきました。しかし、その鳥は、自分だけ違うことで悩みます。ほかの子と比べると、自分は何と醜い容姿なのだろうか。その鳥は、自分に対し、ダメだというセルフイメージを持ちました。しかし、群れから外れ、やがて、白鳥に出会い、自分の本当の姿に気づきます。


   私たちは、自分のことをどう思っているでしょうか。人は、多かれ少なかれ、どこかしら、自分はダメだというイメージを持っているものです。そういうイメージを持ってしまったのは、親や社会からそういう情報を提供されてしまったからです。たとえば、成績が良いとほめられるという教育によって、成績が良いと価値がある、悪いとダメなんだというイメージが出来上がります。仕事や容姿もそうです。社会全体が、人のうわべの行いや能力を評価します。どんな人でも必ず劣る点はありますから、自分はダメな者という印象を持ち、そのイメージに従って生きるようになります。

   そして、そういうイメージを持てば、必然的に、どうにかして人から認めてもらえるよう、頑張って生きるようになります。そうすると、例外なく、人の目を気にする生き方になります。仕事の成績、上司の顔色、親の顔色、とにかく自分をダメな者と思うと、人を気にするようになります。

   この生き方の問題点は、比較することにあります。少しでも愛されるには、ダメな者でなくなるには、人より上になるしかありません。ですから、自分より上だと思う人には、嫉妬、妬み、怒り、憎しみが生じます。ダメな者だと思えば、人と争います。少しでもよく思われる姿になろうと思うのは、ダメな者だと思っていることの裏返しです。こうした思いは、人を苦しめるものです。すべては、自分をダメな者とイメージした結果なのです。


   しかし、本当に私たちはダメな者なのでしょうか。それは事実なのでしょうか。私たちの問題は、このイメージが事実かどうかという確認をしてこなかったことにあります。尖閣諸島の問題のように、私たちは、それが事実かどうか確認する必要があります。では、何によって確認すればいいのでしょう。それは、聖書です。


   人類の歴史は5000年。人類が最も飛躍し成長したのは、この500年のことです。それまで人類は人の価値はうわべにあるという教育を受けてきました。ですから、どこの国にも身分制度がありました。それを、みな、当たり前だと思っていました。人の価値は上辺によって決定されることに、誰も疑問を抱きませんでした。選挙権は、ある一定以上の税金を納めた人にだけ与えられていました。


   ところが、500年前にある書物が私たちに教わったことが嘘だと気づかせてくれました。それが聖書です。過去1000年の間、人類に最も影響を与えた出来事は何かというアンケートを、アメリカのライフという雑誌が調査し、取り上げたことがあります。有識者たちは、活版印刷の発明だと考えました。その印刷機の発明により、聖書が一般の人たちに広まったのです。これが、最も人類に大きな影響を与えた出来事だと彼らは言います。


   聖書の原語は、ヘブル語とギリシャ語ですが、当時、聖書は一般の人には読めないように、ラテン語に訳され、神聖なものとされていました。それを読めるのは、限られた教職者だけでした。ですから、一般の人々は、今のように聖書を自分の手にとって読むことができませんので、神父の言葉を信じるしかありません。ところが、その教えは、あまりにも聖書からかけ離れたものでした。そうした中、一人の教職者ルターが、そのことに胸を痛めました。そこで、ルターは質問状をたたきつけ、その結果、宗教改革が起きました。この改革により、ルターはドイツ語に翻訳し、グーテンベルグが作った活版印刷を使って聖書が広く読まれるようになりました。それを通して人々は自分が社会や親から教わったことは嘘だと気づいたのです。


   彼らがまず知ったのは、人の価値は全て平等だということです。私たちは、生まれ育った環境や能力によって、人の価値には格差があるということを区別してきたけれど、そうではない。人の価値はうわべにあるではなく、みな神の作品であって、みな平等に価値がある。そのことに気づいたのです。次に彼らが気づいたのは、人は行いによるのではなく、神を信じる信仰だけで救われるということです。また、患難というのは、神の罰ではなく、神の栄光が現れるときだということを知りました。

   こうした気づきにより、一つの政治の革命が起きます。民主主義運動です。聖書が教える、人の価値が、基本的人権の概念になり、先進国はみなこの概念に基づいて国が建てられるようになりました。先進国と言われる国の多くはキリスト教です。

   聖書の教えは、人々が教え込まれ、信じてきたことをことごとくひっくり返しました。芸術、科学、教育、ありとあらゆる面に影響を与えました。聖書がどれほど、人類に影響を与えたかは、語り尽くすことはできませんが、元をたどれば、人々が聖書を手にすることができるようになり、問題に行き詰まったとき、聖書には何と書いてあるか確認できるようになったことが要因なのです。


   日本は、今日、その思想を受けて憲法が作られ、国が守られています。何と幸いなことでしょう。しかし、日本人は、聖書で物事の事実を確認することはしません。ですから、自分の意見がないと言われます。他の先進国は、確認するものさしを持ち、それを元に、堂々と自分の意見をはっきり言います。ここには大きな違いがあるのです。


   聖書は、私たちに確認するための情報を与えています。これが、聖書が今日果たしている役割です。

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4章12節)


   私たちが思っていることが真実かどうかを判別してくれる、それが聖書です。聖書を通して、私たちが信じていることを確認することができます。神は本当にいるのか、死んだらおしまいなのか、私たちはダメな者なのか、それらは全て聖書に答えが書いてあります。聖書は、何をすべきか、何が正しいか、教えてくれているのです。聖書は、最も信頼される書物として、読まれ続けています。ぜひ、聖書を読み、事実かどうか確認する作業をしてほしい。それが、神が人類に聖書を与えた理由です。