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2012年9月9日
『正しい建物』
(第1コリント3章1節〜)
   さて、先週に引き続き、敵に惑わされやすい御言葉について、第1コリント3章から学びます。

『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:1〜4)


   この書簡はコリント教会にあててパウロが書いた手紙です。コリント教会はもともとパウロが開拓し、後任の指導者に任せた教会ですが、この手紙が書かれた当時、分裂の危機にありました。現在でも、多くの教会が分裂の危機を体験します。一体なぜでしょうか。それは、イエス・キリストという土台の上に、間違った建物を建てることを目指しているからです。  パウロは、教会を建てあげることと、一人一人の個人的生き方とを重ね合わせて、この手紙を書いています。それは、教会とは一人一人が集まって建てあげられるものだからです。この手紙を通して、私たちは、自分自身がどのような土台の上に、何を目指して生きればよいのか、どのように軌道修正すればよいのかを知ることができます。


   クリスチャンの生き方は、大きく二つに分類されます。「肉に属するクリスチャン」と「御霊に属するクリスチャン」です。肉に属するクリスチャンの特徴は「ねたみ、争い、嫉妬がある」ということと「人につこうとする」ということです。私たち人間の心は平安・安心を求めています。肉に属する人は、それを人から得ようとします。つまり人の賞賛や関心を得ることができれば安心します。反対に、人からよく思われないと不安になります。安心を得るために、自分は賞賛されるべき人間か人と自分を比べるので、ねたみや嫉妬が生まれ、落ち込む原因にもなります。落ち込むと人からなぐさめや励ましを得て、安心を得ようとします。


   たとえば、親が子どもに言うことを聞かせようとしてガミガミ怒る場合、多くは、子どもが自分の言うとおりにならないことで自分の価値を引き下げられたと感じ、価値を取り戻そうとして怒っているのです。人からの評価に、自分の安心を見いだそうとしている結果です。また、仕事ができる人と見られることも自分の価値となります。自分の価値を相手や物に投影し、それに依存しているのです。これが肉に属するクリスチャン、肉の生き方です。 それに対して、御霊に属するクリスチャンの特徴は、神の言葉を信頼して平安を手に入れようとする生き方です。人ではなく神に依存するクリスチャンのことです。肉の価値観から正しい価値観に軌道修正したクリスチャンです。


『私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:9〜11)


   神の畑、神の建物とは、私たちは神が作った作品であり、自分ものではなく、神のものだということです。農夫が畑を耕すのは、実を収穫するためであり、建物を建てる人は、自分にとって必要だから建てるのです。神が私たちを造ったのは、神にとって必要だからであり、神にとって大切だからです。

   種を蒔いたパウロとアポロは協力者であり、神の恵みによって土台が据えられました。それは、行いではなく恵みによって救われたことを意味します。そして、救われた私たちは、どのように自分自身を建てるべきか、それぞれが注意しなければならないのです。


『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8〜10)


   聖書の大半は、どうすれば救われるかということではなく、救われた者がどうすれば多くの実を結ぶことができるかということが書かれています。どのように信仰を生かし平安の実を結ぶか、どうしたらもっと心が自由になるのかに焦点が当てられているのです。

   私たちは、自分の行いではなく神の恵みによって救われます。神が恵みによってイエス・キリストという土台を据えた以上、ほかのものを据えることはできない、つまり、救いは永遠であり、行いによって取り消されることはないということです。


『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:28)


   永遠のいのちとは、イエス・キリストのいのちであり、何びとも切り離すことはできません。この前提はとても大切です。救いが行いによるものではないことがわかっていないと、立派な行いができない自分を発見したとき、天国に行けるのだろうかと心配になり、簡単に惑わされます。どうすれば神の国に行けるか、という視点で御言葉を解釈してしまうと、御言葉が立派な行いを目指す律法になってしまうのです。

   そういうわけで、建てるべき建物は、立派な行いではありません。では神は、何に注意して建てなさい、と言われるのでしょうか。建物には、それにふさわしい土台があります。ですから、土台を理解することによって、どのような建物を建てることができるのかを知ることができます。


『もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:12〜15)


   金、銀、宝石、木、草、わら・・・・・・これらはすべて、人からの賞賛・関心を得るための手段として書かれており、神の建物を建てるのにふさわしいものではありません。

   人の関心を買う方法で最も有効なのは金です。金メダルを取れば、多くの賞賛を受けることができます。この世は私たちに一番を目指すこと、より上位を目指すことを教えます。それは賞賛を得ることで、平安・安心を得ることができるからです。金が無理なら銀、それも無理なら宝石でも良いから、賞賛や関心を得られる生き方をせよと、この世は教えます。
   もし賞賛を得ることができなければ、人の関心を買おうとして悪さをするようになります。それが木、草、わらなどで家を建てるということです。

   しかし、それらのもので建てた建物はキリストという土台にふさわしいものでしょうか。キリストという土台は永遠です。だから、本当は永遠なるものしか建てられません。それは、御霊の実、神を信頼する心です。キリストという土台の上に、肉なるもので建てても無駄になってしまいます。肩書き、立派な行い、ほめられよう、立派なクリスチャンと言われようという目標を達成し、人から得られる安心、平安で建物を築いても、何一つ残りません。

   真価を試す火とは患難を意味し、終わりの時と理解することも、人生における個人的な患難と理解することもできます。その時、私たちは自分の建物の真価を問われます。試練に出会い、私たちは自分の生き方が正しかったのかわかるのです。

   試練と患難は私たちが肉によって築き上げたものを吹き飛ばします。この世の建物は跡形もなく崩れ去り、私たちの安心はキリストにしっかりとつながることで、手に入れることができると知るのです。

   正しいもので建てれば、患難にあっても平安でいられます。神を信頼することからくる報いは平安です。試練の中でも希望を持つことができるのです。


   では、この御言葉を肉の価値観でとらえると、どのように惑わされるかを考えてみましょう。木、草、わらは燃えてしまうが、金、銀、宝石は火で燃えない、だから火でも燃えない建物を建てるために、金、銀、宝石と認められる立派な行いで自分自身を建てあげるのだという解釈になり、神のために苦労したら神から報いがもらえるから、神が望む行いを目指して頑張りましょう、と考えるのです。ここに敵の落とし穴があります。

   良い行いをすることは間違っていません。しかし、行いを目指さなくても、神への信頼が増し加われば、自動的に行いは変わるものと理解しなければなりません。神への信頼を抜きにして、見せかけだけの行いだけを追求すると、心の中は嫉妬やねたみが渦巻いていて、まったく平安がないのです。そして、クリスチャンだから○○しなければならないという律法にしばられ、できないと神の国に行けないのではないかという恐れに縛られるようになります。これが悪魔の罠です。

   私たちが目指す、神への信頼を育てる道はひとつしかありません。それは、「多くの罪が赦されたものは多く神を愛するようになる」という道です。どれだけ罪が赦される体験をしたかが、神を愛する、信頼するという道につながるのです。

   行いによって神に近づくことはできません。神は確かに、御言葉に従いなさいと教えていますが、それはほめられるためではありません。罪に気づき、赦される体験を積んで、神を愛し、信頼する者になってもらいたいからです。

   このように目指すものが異なると、御言葉の運用の仕方がまったく変わってきます。御言葉は私たちが立派なクリスチャンであることを証しするためではなく、自分の罪深さに気づくためにあるのです。私はそれほど悪い人間ではないから、あまり神を愛することができないのではないか、という心配は無用です。心配しなくても、御言葉を実行してみれば、驚くほど多くの罪を抱えていることに気づくでしょう。

   神の約束が信じられない不信仰、つぶやき・・・こうした自分の罪深さに気づくと、ただ神に助けてくださいとしか言えません。この体験が心から神を愛するものとなるのです。自分がどうしようもない惨めな人間だと気づかないと、神を愛することができません。自分の罪に気づくことが、神の愛に触れるチャンスです。こうして、神を信頼できる喜びと平安を手にすることができるのです。これがどんな試練にぶつかっても残る御霊の実です。

   クリスチャンには自由があります。それは、神を信頼する生き方です。神に助けを求めれば自然に行いは変わるのです。

   ここで注意する必要があるのは、もし、間違った建物を建ててしまったとしても、土台はイエス・キリストですから、永遠に残るということです。つまり、平安を手にすることがなくても、天国には行けるのです。


『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:16)


   これが正しい建物の姿です。イエス・キリストという土台の上に建てるのは神の神殿であり、内には御霊の実という平安があるのです。

   神殿の主は、言うまでもなく、私たちではなく神です。神にとって心地よい建物とは、私たちが神を信頼する関係にあることです。行いを誇ったり、つぶやいたりすることは、神にとって不快なことです。聖書では不信仰とつぶやきに気をつけるように教えています。 パウロは、コリントの人々が間違ったものを建てているために教会が分裂しているのだ、軌道修正しなさいと言っています。

   人生でもまったく同じことが言えます。限られた人生を後悔なく生きていくために、平安の実を結ぶ本物の建物を立てる必要があります。私たちは神の建物であり、畑であり、神が土台を据えているのだから、間違ったものを建ててはいけません。

   患難にぶつかったら、それは信仰が試されるチャンスです。問題にぶつからなければ神を信頼するきっかけが生まれません。しかし、ここから築き上げた信頼こそが永遠に残るものであり、キリストの土台の上に建て上げる建物なのです。