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2012年8月26日
『真理の帯』

『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:13〜15)


先週まで、私たちを惑わす敵の正体は、「肉の価値観」と「恐れ」であることを見てきました。その惑わしに対し、神は、神の武具を身につけるように言われています。では、武具の一つである「真理の帯」を見ていきましょう。


真理の帯とは何でしょう。

真理とは、御言葉を指します。ただし、御言葉が真実だと信じられるからこそ、その人にとっては、真理となります。例えば、御言葉は、イエスは救い主なるキリストであることを教えています。しかし、それを信じられなければ、その人にとっては真理になりません。ただの知識で終わってしまいます。つまり、御言葉が真理となるには、それを信じる信仰を必要とするのです。こうしたことから、真理とは、御言葉と信仰が一体となったものであると言えます。


では、帯とは何でしょう。

着物の帯を見れば分かりますが、それは束ねる働きをします。個々の働きを一つの目的のために協力させ、束ねるのが帯です。こうした帯の働きから、帯とは目標であることが分かります。なぜなら目標はバラバラなものを一つにまとめ、一つの方向に導く働きをするからです。つまり真理の帯とは、数多くある御言葉と信仰とを束ね、一つの方向に導く「目標」のことです。


では、御言葉が示す目指すべき目標とは何でしょう。

『イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』』(新約聖書 マルコの福音書 12:29,30)

「神を愛する」これが私たちの目指すべき目標です。


では、神を愛するとは何でしょう。

私たちは「愛する」というと、相手のために何ができるかという行いで考えます。しかし、神を愛するというのは、神を信じること(神を信頼すること)を意味します。神を愛するとは、肉の価値観が連想させる「行い」とは違います。

『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:3)

パウロは、はっきりと、愛と行いとを区別しています。何かをすることと、愛とは、完全に区別して述べています。そして、愛とは、次のようなものだと教えています。

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:4〜7)


ここで述べられている内容は、全て、心が神に向けられているときに起きる様子です。心が神に向くと、神への信頼から平安が手に入るので、人から平安を得ようとする見返りを期待しなくなります。ですから、人には寛容になり、親切になり、ねたんだりしません。自慢もせず、高慢にもなりません。そして、神への信頼をさらに増し加えようと、御言葉を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶようになります。


すなわち神を愛するとは「行い」を指すのではなく、心を神に向け、神に近づこうとすることです。この愛から、見返りを期待しない行動が生まれます。これが神が望まれる行いとなります。

『すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:28,29)


ではどうすれば神の言葉を信頼できるようになるのでしょう。ここが肝心です。それは自分の罪に気づき、神に赦していただくことです。

『だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(新約聖書 ルカの福音書 7:47)

多くの罪を赦されるというのは、たくさんの罪を犯しなさい、という意味ではありません。一つでも表の罪を犯すなら、その下には、信じられないほどの深い罪の根(不信仰)が張り巡らされているのです。イエス様は、その罪に気づき神に差し出すことを、多くの罪が赦される、と言っておられるのです。


では、どうすれば多くの罪に気づくことができるでしょう。それは、御言葉を信じようとすることです。

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6)

御言葉を信じようとすれば、それが信じられない自分に気づきます。御言葉には、罪に気づかせる働きがあるからです。

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:12,13)


こうして、私たちは、罪に気づくことができ、神に赦され、神への信頼を増し加えていくことができるのです。

私たちは、御言葉をどのように惑わされてしまうのでしょうか。

『人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。』(新約聖書 マタイの福音書 16:27)


肉の価値観は、この言葉から、目指すべきは神からの「報い」だと思わせます。そのためには、「行い」を頑張ることを目標にするようにと惑わしてきます。この世の価値観が意味を勝手に補完し、目標を行いへと変えるのです。そして、それが神を愛することだと思わせてきます。すると、罪を明らかにするための御言葉が、自分の行いの正しさを誇るための道具になってしまいます。

イエス様は、惑わされて、間違った目標に進まないよう、次のようなたとえを話されました。

『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』』(新約聖書 ルカの福音書 18:10〜12)


パリサイ人は、良い行いを誇り、神から報いを得ようとしています。ですから、自分は、ゆする者、不正な者、姦淫する者ではないと誇り、断食もし、十分の一を捧げていますと祈りました。目的は、神からの報いを受けるためです。罪を明らかにするための御言葉を、自らを誇るための道具にしているのです。このパリサイ人に対して、もうひとりの取税人は、こう祈りました。


『ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』』(新約聖書 ルカの福音書 18:13)


取税人は、御言葉に照らされ、自分がいかに罪深いかを知りました。ですから、赦しの恵みの御座に近づき、神にあわれみを乞うたのです。彼は、正しい方向に向かっています。ですから、イエス様は、このたとえの締めくくりでこう言われました。


『あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 18:14)


イエス様は、二人の対照的な祈りを話されることで、間違った目標を目指すことのないよう注意されたのです。間違った目標を進むと、神への信頼は育ちません。繰り返しますが、私たちの目標は、神を愛することです。神を愛するとは、神を信頼することです。見た目の行いではありません。神を信頼するためには、罪に気づき、罪を赦されることです。神の赦しの恵みに預かるとき、私たちの心には平安な義の実がなります。この実をならしながら、神への信頼を増し加えていくことが、私たちの目指すべき目標です。そのためには、真理の帯をしっかり締め、正しい目標を目指して進むことです。