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2012年7月22日
『怒りパートW〜カインの怒り〜』

怒りをまとめるにあたり、創世記のカインの話を見てみましょう。彼は人類で初めて殺人という表の罪を犯すに至った人物です。彼はどのような経緯で、殺人に至ったのでしょうか。


カインとアベルは、それぞれ、神に捧げ物をしました。神は、彼らの心をご覧になりました。そして、カインではなく、弟アベルとその捧げ物に目を留められました。カインは、このことから、自分は愛されないダメな者だと受け止めました。ですから、怒りがこみ上げ、何とか自分の価値を取り戻そうと思い、弟アベルを殺すに至ったのです。


カインのこの行動を分析してみましょう。カインは、神が自分の捧げ物を受け入れなかったことに対して怒りました。彼の怒りから、彼は、見えるものに自分の価値を重ねていたことが分かります。この場合、自分の価値を捧げ物に重ねていました。ですから、捧げ物が受け入れられなかったので、自分の価値が奪われたと思い、それを取り返そうと怒りました。


私たちも、カインと同じです。死の恐怖から、人の価値は「うわべ」にあると信じさせられているため、自分の価値をいつも見えるものに重ねます。ある人は仕事、ある人はお金、ある人は容貌。ですから、自分が価値を重ねているものが相手に受け入れられなかったときは、自分が否定されたと受け止め、自分の価値が奪われたから取り戻そうと怒りが込み上げます。では、怒りが込み上げたカインを、さらに詳しく見てみましょう。


カインは、日頃から肉の眼鏡で自分はダメな者と、自らをさばいていたことが分かります。弟アベルと比べ、自分は価値のない者と見なし、弟が自分の価値を奪っていると、弟に敵意を感じながら生きていたことが分かります。そうでなければ、いきなり殺したりはしません。カインは、肉の眼鏡のせいで弟アベルを憎まされ、何とか弟を見返してやろうと思っていたことが容易に推察できます。カインの場合の怒りは、良い行いを頑張り、神にほめられることで自分の価値を取り戻そうとする姿に変わっていました。ですから、彼は頑張って捧げ物をしました。しかし、弟の捧げ物は受け入れられたのに、頑張った自分の捧げ物は受け入れられませんでした。ですから、弟への敵意はさらに増し加わってしまいました。


私たちも、誰かと自分を比べダメな者と思い、その怒りから教会の中で頑張ったりしないでしょうか。教会の奉仕を頑張り、認められることで自分の価値を取り戻そうとしないでしょうか。そのような動機で奉仕をすると、自分のした奉仕が認められない場合、さらに怒りが込み上げてくれます。ある者は、その怒りを牧師に向け、激しく牧師や教会を批判します。これが、最悪、教会を分裂させてしまいます。では、また話をカインに戻しましょう。


カインが神に捧げ物をした理由は、神のためではありませんでした。あくまでも、自分の価値を取り戻すためでした。そして、そのことで安心を手にするためでした。ですから、いくら立派な物を神に捧げても、彼の心は神に向いてはいませんでした。向いていた先は、自分の価値です。ですから、何をしようが、正しくない行いです。それゆえ、神は、彼の捧げ物に目を留められませんでした。そのことを、神はこう言われました。

『あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。』(旧約聖書 創世記 4:7)

つまり、カインの捧げ物が悪かったからではなく、自分の価値を取り戻そうと、怒りから捧げ物をしたから受け入れられなかったのです。


私たちも、神に奉仕をする際、神のためではなく自分が認められようと、行なっていないでしょうか。奉仕で認められ、教会の中で尊敬を集め、偉くなりたいと思っていないでしょうか。上に立つ立場になりたいと思っていないでしょうか。弟子たちはそう思いました。カインと同様に互いを比べて、少しでも神に認められ、偉くなりたいと思って奉仕をしました。ですから、奉仕をすることで互いに嫉み、誰が偉いかと争いました。これも、典型的な怒りです。私たちも奉仕をする中、もしも嫉妬や争いが生じるなら、奉仕の動機が間違っています。神のためではなく、自分のためにしています。では、またカインの話に戻します。


神は、彼の捧げ物が間違った動機からだったので受け入れませんでした。それは、決して「ダメな者」という意味でカインの捧げ物を受け入れなかったのではありません。その反対に、神は、カインが良き者だからこそ、彼の罪に気づかせようとして受け入れませんでした。もし仮に、カインのしたことを受け入れ、「よくやった」とほめていたらどうなったことでしょう。カインはますます見えるものに頼るようになり、彼の肉の眼鏡はその力を増していったでしょう。すると、その肉の眼鏡は、ますますカインに背伸びをさせ、彼の心を追い込んでいったでしょう。カインは、もう神ではなく、見えるものでしか安心を手にできなくなっていったでしょう。ですから、神は、そのようなことにならぬよう、彼をほめて、持ち上げることはせず、正直にカインの問題点を指摘されました。しかし、その思いは届かず、カインは「ダメな者」と思い込んでしまいました。これが、罪の恐ろしさです。神の思いである御言葉を、肉の眼鏡がふさいでしまうのです。


私たちは、人を愛するとは、同情することだと思っていないでしょうか。美辞麗句を並べ、相手を励ますことだと思ってはいないでしょうか。奉仕をする者には、あなたは偉いとみんなの前でほめることが、その人を励ますことと思ってはいないでしょうか。こうしたことは、相手を苦しめる手助けにはなっても、励ましにはなっていません。なぜなら、私たちの苦しみの原点は、自分の価値は「うわべ」にあると信じ、「うわべ」を良くすることで自分の価値を取り戻そうとすることに尽きるからです。ですから、うわべが良くなったなら、あなたの価値は素晴らしいというのは、ますます肉の眼鏡を強くさせ、心を見えるものに縛り付けさせてしまいます。私たちがすべき励ましは、互いに、自分の価値は「うわべ」にはなく、神のいのちにあることを確認し合うことです。つまり、互いにさばかず、どのような「うわべ」であっても、良き者として受け入れ合うことです。では、またカインの話に戻しましょう。


捧げ物が受け入れられずに、再び「ダメな者」と思い込んでしまったカインの心は、当然、何とか自分の価値を取り戻そうと怒りに燃えました。それが、顔を伏せるという行動になりました。顔を伏せながら、カインは、どうすれば自分の価値を取り戻せるかを考えました。そしてついに、弟アベルさえいなくなれば、自分がほめられ、価値を取り戻せると思いました。ですから、彼の怒りは、弟アベルに対する憤りとなり、彼を殺そうという思いに大きく成長を始めました。神は、彼の心の中の思いに気づかれ、こう言われました。


『そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』(旧約聖書 創世記 4:6,7)


神はあなたが怒ったままなら、罪が戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っていると言われました。この場合の罪とは、表の罪である「殺人」を指しています。つまり、怒りが表の罪にまで発展すると言われました。ですから、神は、その憤りとなった怒りを治めるべきだと警告されたのです。弟アベルを殺すなとは言われず、ただ憤りを治めよと警告されたのです。


この一連の神の言葉から、怒りが、どのように変化をし、表の罪に至るのかがよく分かります。私たちの中にある怒りも、同様に大きく成長していきます。あまりに大きくなりすぎると、もう、自分でもどうすることもできなくなります。ですから、早い段階で怒りに気づき、それを処理することが肝心です。神は、今ならまだ間に合うと、早い段階でカインに問題点を指摘され、それを治めなさいと言われました。ところが、カインはその指示には従いませんでした。そして、怒りを大きく成長させ、弟アベルの殺害に至ったのです。


罪は、このように巧妙に姿を隠し、私たちをどん底の苦しみに追い込んでいきます。この罪に、私たちはなかなか気づきません。ですから、聖書は、指導者の言うことに服従しなさいと教えています。指導者は、人が罪に陥らないよう罪の見張りをし、神にとりなしをしているからです。カインも、神の言うことに服従していれば、罪に苦しまずにすみました。


『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:17)


カインの聖書記事は、このように、私たちに罪の恐ろしさを教えてくれています。カインの殺人は、肉の眼鏡で自分の価値を見ることから始まりました。弟と自分を比べ、自分はダメな者と思うところから始まりました。実に、他愛のないことです。しかし、それが怒りです。その怒りが、次第に大きくなり、気づいたときは弟を殺していました。その怒りは、弟を殺すだけでは終わらず、さらに、カインの子孫にも広がっていきました。そして、見えるものにしがみつく生き方をさせ、子孫の心を神から引き離させました。


罪とは、このように他愛もない怒りから始まり、人を殺し、さらには子孫の行き方までも左右する大きな怒りに成長していくのです。この怒りがもたらす被害は、今日広く知られています。それは、殺人だけではなく、様々な依存症、様々な精神的な問題、さらには戦争など、ありとあらゆる社会問題の原因となっています。しかし、怒りがもたらしている、私たちへの最大の被害は、私たちが心を神に向けられなくなることです。ここに、怒りの真の目的があります。


私たちが怒るのは、見えるものに価値を置こうとしているからです。自分の価値を見えるものに置くこと、それが神の言葉を信頼しない不信仰です。その不信仰に気づき、心を神に向けていきましょう。