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2012年6月24日
『宿営の外に出なさい』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:10〜25)
『私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:10〜13)


当時、宿営の外に出ることは、とても危険なことを意味しました。人々は、宿営で安心を担保し生きていました。私たちの生き方というのも、まさに、安心を担保する生き方です。しかし、イエス・キリストは御国という宿営を出られ、御心の実現のためにこの地上に来られました。ですから、私たちも、宿営を出て、神に近づこうではないかと述べられています。


では、私たちにとっての宿営とは、どんなものでしょう。ある人は、肩書きを得て安心を手にします。ある人は、良い人という評判を得て安心を手にします。ある人は愛する人、ある人は家族、ある人は仕事、ある人は趣味・・・・私たちにとっての宿営地とは、こうしたものです。人は一度宿営を築くと、自分の安心をそれに託し、そこから出ようとしません。しかし、神は、そこから出なさいと言っておられます。出るというのは、それを捨てなさいという意味ではありません。そこに、安心を託す生き方をやめなさい、という意味です。


安心を託す、というのは、そこに自分の価値を見いだすということです。ですから、人は、築き上げた宿営(肩書き、評判、愛する人、家族、仕事、趣味・・・)に自分の価値を投影します。自分の価値を投影すると、たとえば、それが自分の思いどおりにいかないときに、怒りを覚えます。自分の価値が引き下げられたと感じるからです。それは、人にとって耐えがたい苦痛です。だから、何とかして自分の価値を取り戻してやろうと思います。このように、見えるものに自分の価値を投影させると、それが上手くいっているときは、喜び、上手くいかないと怒りがこみ上げます。見えるもの次第で、株価のように自分の価値が変動してしまうのです。


神は、これに対し、そんな安っぽいものに自分の価値を投影することはやめなさい、と言っておられます。理由は、私たちの価値を見えるものに投影させることが不可能だからです。私たちのいのちは、神のいのちの一部であり、見えるもので計ることなどできません。


『だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。』(新約聖書 マタイの福音書 6:25,26)


こうしたことから、神が「宿営を出なさい」と言われる言葉には、見えるものに自分の価値を託すことはやめなさい、という深い意味が込められています。


では、私たちが宿営の外に出るためにはどのようにしたらいいのでしょう。聖書は次の3つを教えています。


1.まずは賛美のいけにえを捧げよう

『私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:14,15)

イエス・キリストが来られる前は、動物のいけにえを祭壇にささげ、罪の赦しを乞うていました。しかし、イエス・キリストが十字架に掛かり、私たちの罪のためのいけにえとなってくださったので、私たちはもう、神に近づくために、何かをする必要がなくなりました。私たちに残っているのは、ただ神へ賛美を捧げることです。宿営の外に出るためには、まず、賛美をささげることです。賛美は、心の中に、神への思いを大きくします。そして、見えるものに向けていた心が、神へと向けられていきます。


2.人を愛しなさい

『善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:6)

次に、宿営の外に出るために、すべきことは、兄弟を愛することです。なぜなら、目に見える兄弟を愛せない者は、目に見えない神も愛せません。目に見える兄弟を愛することが、神を愛することだからです。愛することをやっていくと、見えるもの(宿営・あなたの拠り所)で価値を得ようとしていた心が、神へと向けられていきます。


3.指導者の言うことに服従せよ

『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:17)

目に見えるリーダーに従えない者は、目に見えない神にも従えません。ヘブル書では、安息に入れなかったイスラエルの民は、リーダーであるモーセに従わなかったことが書かれています。反抗するのは、自分の価値を証明し、安心を得ようとするからです。それが怒りであり、不信仰です。そういう生き方をやめることが、神の言葉で安心を得る生き方に直結します。


神の言葉を食べるというのは、何もしないでじっと待っていることではありません。宿営を出ることです。実際に抱えている問題の解決を信じて、一歩踏み出すことです。そのとき、神は助けてくださいます。神は、どのように助けるのでしょう。神は、あなたを通して、あなたを助けるのです。