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2012年6月3日
『キリストから目を離さない』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:1〜11)
ヘブル書は、安息を目指す生き方は、神の言葉を食べる生き方であると教えていました。12章では、その生き方を「競走」という表現を用いて説明しています。


『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:1)


安息を目指し、神の言葉を食べようとする生き方は、まつわりつく罪と重荷を捨てていく戦いです。それを「競走」と表現するのは、目指すべきゴールがあるということが言いたいためです。私たちの競走には、神の安息というゴールがあるのです。


では、安息を目指す競走を忍耐をもって走り続けるために、私たちはどうすればいいのでしょうか。2節からは、競走をする上での注意点が三つ述べられています。


@イエス様から目を離さないことです。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:2)

イエス様は、なぜ神の右に着座されたのでしょう。それは、私たちの罪をとりなしてくださるためです。安息を目指し、神の言葉を食べていけば、私たちは、必ず罪にぶつかります。イエス様はその罪をとりなすために、神の右の座に着座されました。私たちは、罪に気づいたら、それをイエス様に差し出せばいいだけです。イエス様は大祭司です。私たちの罪をとりなしてくださいます。このとりなしにより、私たちは赦されていることが分かり、神は私たちにとってまさに必要な方だということが分かり、私たちの心には神への信頼が増し加えられていきます。ですから、私たちは、イエス様から目を離してはなりません。


『しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:24〜26)


Aイエス様の生き方から目を離さないことです。

『あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:3,4)


イエス様は、この地上で福音を伝えていく中、様々な罪人たちの反抗にあい、それを忍ばれました。私たちも、安息を目指して、神の言葉を信じようとすると、反抗する人にあいます。反抗する人とは、誰でしょう。それは、私たち自身です。私たちの中にある肉の価値観が反抗するのです。聖書にそう書いてあってもそんなのは不可能だとか、見えるものに頼った方が幸せだとか、神の言葉を素直に信じようとしない反抗的な思いがやってきます。それが肉の価値観であり、不信仰です。私たちは、そういう反抗する自分自身にあいますが、イエス様が忍耐して不信仰に向き合われたように、私たちもあきらめずに神の言葉を信じる戦いを続けていきましょう。私たちの戦いは、まさにこの不信仰の罪との戦いです。


Bイエス様の愛を忘れないことです。

『そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:5〜7)


私たちの苦しみは、見えるものにしがみつくために生じています。神は、この苦しみを根本から解決しようと、私たちに働きかけてくださいます。そのため、人が見えるものに必死にしがみつこうとしている間は、何もされず、静観されます。なぜなら、見えるものにしがみつこうとしている間は、人の心は見えるものに向き、神を求めていないからです。ですから、神は、人が患難にぶつかって、つらくなり、神への渇きが起きるのを待たれます。


とはいえ、神が患難を起こされるのではありません。患難とは、見えるものが役に立たなくなることをいいますが、神が何もしなくても、人は、自らの失敗で患難にぶつかります。また、予期せぬ出来事によって、患難に会います。ですから、神が患難を起こすことはされませんが、しかし、神はそうした起こるべくして起きる患難を、あえて防がず、静観されます。そうした神の対処から、人はそれを「懲らしめ」のように感じるかもしれません。上記の御言葉で、患難のことを、「懲らしめ」とか「むちを加える」とか「訓練」といった表現が使われているのはそのためです。この続きの御言葉では、神がなぜそのような静観をされるのか述べられています。


『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:11)


神が静観される目的は、一重に、人に平安な義の実を結ばせるためです。人が神に頼るしかないことに気づき、見えるものにしがみついていた手を離し、神の御手にしがみつく選択ができれば、平安な義の実を結ぶことができます。ですから、神は人がつらさを覚えているのをあえて静観され、じっと耐え忍ばれます。そして、人が助けを求めてきたのなら、ここぞとばかり全力で助けられます。ここに神の愛があります。


神に「助けてください」とすがることは、簡単なようですが、本当に大丈夫だろうか、祈ってもきかれないのでは、と不信仰に邪魔されてなかなか素直にできないものです。神の言葉を食べる競走をする上で、この不信仰が最大の敵です。これを取り除かない限り、神の言葉は食べられません。「助けてください」と素直にすがることは、神に心を向けさせない不信仰に勝利することです。ですから、神は、患難を用いて、私たちが神に助けを乞えるよう訓練してくださいます。ここに愛があるのです。この神の愛を分かりやすく理解するために、有名な放蕩息子の話を見てみましょう。


息子(弟)は父に、「私に、財産の分け前を下さい。」と言いました。父は、そのとき二つの選択をすることができました。一つは、言われるままに財産を分与する選択。もう一つは、財産を分与すれば放蕩することは目に見えていたので、ダメだと叱る選択です。父はそのとき、叱る選択ではなく、あえて好きにさせる選択をしました。息子が放蕩し、行き詰まるのを待つ選択です。案の定、息子は行き詰まりました。しかし、その間も、父はしもべを遣わし、息子を助けるということはしませんでした。ただ、忍耐して息子が帰ってくるのを待ちました。そしてついに、息子は自分の罪に気づきました。見える富にしがみつき、平安を手にしようとした罪に気づきました。それと同時に、父の元に帰ろうと決心をしました。そして、父は、帰って来た息子を見つけ、彼に走り寄り、彼を抱き口づけし、何も責めずに、彼を祝福しました。


有名な放蕩息子の話(ルカ15:11-32)の前半部分です。この話の中で、父はあえて、息子が富に頼ろうとするのを好きにさせました。それが、どのような結果になるかを知っていましたが、あえて好きにさせました。この父の選択こそ、神のされる選択です。これが、神のむちであり、訓練です。もし仮に、このたとえの中で、父が強制的に息子を止める選択をしたならどうでしょう。息子は、父を心から愛し、信頼するようになったでしょうか。いや、なりません。無理矢理に自由を奪われたと反抗し、形だけの関係を築くだけで終わったでしょう。それは、父の望みではありません。ですから、あえて彼の好きにさせ、彼が富の鎧にすがる空しさに気づくのを待つ、という選択をされました。この選択の方が、はるかに息子のことを思う深い愛情が求められます。


私たちは、安息を目指す競走をする上で、イエス様のこの深い愛を忘れないことです。