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2012年5月27日
『約束のものを得る道』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:39〜40)
神の計画は、平安を与える計画です。人が見えるものにしがみつくのは、それを得ることで平安を得たいからです。神は、私たちに神への絶対的な信頼を与えたいと思っておられます。神をまことに信頼できることが、平安だからです。ヘブル書11章では、その平安を手にするためには、信仰を手にするしかないということが述べられていました。


『この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:39〜40)


約束されたものは得なかった、という約束のものは何でしょう。ここでいう「約束のもの」とは、旧約聖書で神が約束されていた、キリストが来られるというものです。人々はその約束を待っていましたが、キリストの約束を得ることはありませんでした。その約束は、彼らのためだけに用意された約束ではなく、全ての者の為に用意された約束であるという意味です。この御言葉以外にも、ヘブル書は、たびたび、「約束のもの」という言葉を使っています。その代表的なものとして、ヘブル書6章の御言葉が挙げられます。


『神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 6:13〜15)


ここには、神がアブラハムにした、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」という約束のことが書かれています。そして、アブラハムは、忍耐の末に約束のものを得たとあります。この言葉を素直に読むなら、「信じる言葉」を食べた結果、約束されたことが実現し、多くの子どもが得られたと読めるでしょう。


しかし、アブラハムには、一体、何人の子どもが与えられたのでしょうか。その数は、わずか一人です。妻サラとの間には、イサク一人しか与えられていません。これはどう考えても、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」の約束を得たとは思えません。でも、聖書は、「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」と述べています。ここから見えてくることは、「信じる言葉」を食べて得られるものとは、見た目の結果を得ることではないということです。では、一体何を得たというのでしょうか。その答えは、ヘブル書の11章に見ることができます。


『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)


アブラハムを含め、信仰に生きた人々は、約束のものを手にしなかったとあります。確かに、アブラハムはイサクしか手にしなかったので、約束の「大いにふやす。」は手に入れることはありませんでした。しかし、その約束のものを、はるかに見て喜び迎えていたとあります。ここに、先に見た「アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」の答えがあります。つまりそれは、実際には、手にはしていないが、信仰で手にしたという意味です。そのことを裏返すと、神の約束を確信するだけの、神への信頼を手にしたということです。ですから、現実には、そうなっていなくても彼らは喜んでいたのです。すなわち、アブラハムが相続したものは、平安でした。この平安こそが、神が約束された安息の意味です。


『神は私たちにも、平安を相続させたいと思っておられます。「それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 6:12)


では、どうすれば、神の約束である平安を相続することができるのでしょう。それは、神の言葉を食べるしかありません。神の言葉は、二種類に分けられます。一つは、実行することが求められる言葉(愛しなさい、仕えなさい、さばくな、嘘をつくな・・・)。一つは、信じることが求められる言葉(あなたは愛されている、罪は赦されている、病はいやされる、恐れるな・・・)です。幼子は、行いが求められることは実行します。しかし、約束の言葉を食べようとはしません。


聖書が教えている、平安を相続する道程は、神の言葉を食べて、罪に気づくという道程です。人は、神の言葉を食べれば、必ず罪に気づかされます。罪に気づいたら、その罪を大祭司であるイエス様に差し出せば、罪が赦されたということが分かるようになります。すると、人は罪を赦してくださるイエス様を愛し、信頼するようになります。これが平安を相続する道程です。


しかし、問題なのは、どういう神の言葉を食べるかによって、気づく罪が異なるということです。気づく罪が異なると、得られる平安の大きさも変わってきます。行いが求められる神の言葉を食べると、表の罪に気づきますが、それなりの平安しか来ません。しかし、信じることが求められる神の言葉を食べると、「不信仰」という裏の罪に気づきます。その不信仰に気づいて、神の前に差し出せば、神への絶対的な信頼を手にし、大きな平安を得られます。ですから、不信仰に気づくためには、信じることが求められる神の言葉を食べなければなりません。では、なぜ、信じることが求められる言葉を食べると、不信仰に気づくのでしょう。


例えば、仕事に行き詰まったとしましょう。そのとき、神の約束を信じようとします。すると、途端に、神の約束の言葉が食べられないことに気づきます。聖書はそう言うけれど、本当に大丈夫だろうか、神は助けてくださるのだろうか、という不信仰が湧いてきて、神の言葉を素直に信じることを邪魔するのです。こうした不信仰と戦うことは、不安との戦いそのものになり、行いの罪に気づいて悔い改めることとは、比べものにならないほどの忍耐が必要になります。


この不信仰の罪こそ、私たちを神に近づかせない壁です。これを取り除くことが、神を信頼することそのものです。ですから、不信仰に気づいてそれを取り除くことで得られるものは、大きな平安なのです。表の罪に気づいて悔い改めることは、この不信仰の壁自体を取り除く作業ではありません。もちろん、どんな罪でも赦されれば平安をもたらしますが、神が人に与えたい平安は、不信仰に気づいて、それを神に差し出すことで得られる平安です。そのためには、私たちは、信じることが求められる神の言葉を食べていくほかありません。ヘブル書は、そうした平安に至る道程を歩んでほしいと訴えています。


『また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:21,22)


神は、私たちが気づいた不信仰を取り除いてくださいます。私たちは、自分たちの力で、不信仰を取り除くことはできません。神が私たちの為にとりなしてくださるから、安心して、神の言葉を信じ、罪に気づく道に進むことができるのです。とにかく、あきらめないで、神の言葉を信じる戦いをしてほしい、それが「安息を目指せ」というヘブル書の趣旨です。信じるというのは、忍耐がいることです。見える状況が変わらない気がするからです。しかし、神の言葉を信じようと忍耐すれば、必ず、神への絶対的な信頼という大きな報いが与えられます。


『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:35,36)