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2012年5月20日
『信仰とはパートV』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:17〜38)
ヘブル書11章は、信仰の働きについて書かれています。信仰というのは、ただ神の存在を信じられるだけではありません。信仰の様々な働きについて、今回も引き続き見ていきましょう。


『信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:17〜19)

神は、イサクから子孫が生まれることを約束されました。ですから、アブラハムは、イサクを捧げても、必ず死からよみがえらせてくださると信じました。これは、「復活」を信じたということです。すなわち、信仰というのは、よみがえりを信じさせる働きをします。


『信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:20)

信仰というのは、まだ起きていない未来のことについて信じさせる働きをします。


『信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:21)

礼拝とは、心の中に神の存在を大きくしていくことです。すなわち、信仰によってヤコブは、神の存在を大きくしていったことが分かります。聖書は、こうした礼拝を、霊とまことの礼拝と呼んでいます。


『信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:22)

信仰とは、脱出の道があることを信じる働きをします。


『信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:23)

信仰とは、恐れを消す働きをします。


『信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:24,25)

信仰とは、何が大切かを教えてくれるものです。モーセは、自分が手にしていたこの世の富ではなく、神への信頼を増し加える道を選びました。


『彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:26,27)

信仰は、神が与えてくださるまことの報いを求めさせます。モーセは、神が平安という報いを与えてくださることから、目を離しませんでした。ですから、王を恐れず、エジプトを立ち去りました。


『信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:28)

出エジプト記を読むと分かりますが、イスラエルの民はエジプトで奴隷生活を送っていました。神は、モーセをリーダーに立て、イスラエルの民を脱出させます。そのため、神はエジプトの王にイスラエルの民の解放を決心させる出来事をもたらしました。それは、エジプトにいる全ての生き物の最初の子が死んでしまうという災いです。王の子どもから、家畜に至るまで全てです。この災いは、イスラエルの民を捕虜にしているためにこのような出来事が起きたので、エジプトの王は、彼らを解放する決心をしました。その災いの際、イスラエルの民だけは守られました。それは、モーセが神の言われたとおり、イスラエル人の家の門に小羊の血を塗らせたからです。すると、災いは去って行きました。モーセは神の言葉に従うという信仰によって、災いを免れたのです。この出来事は、十字架の贖いと重ねられています。私たちが、救われて罪の罰が帳消しにされたのも、信仰によるのです。


『信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:29)

イスラエル人は、初子の災いを通して解放されましたが、エジプトの王は気が変わり、もう一度イスラエル人を捕えようと追いかけてきました。イスラエル人は、エジプト軍に追い込まれて、絶体絶命的なとき、目の前に広がる紅海が二つに割れ、その道を渡るという神の奇蹟を体験しました。彼らが、海を渡ることができたのは、彼らの信仰によってでした。同じように、エジプト人も紅海を渡ろうとしましたが、彼らは信仰によって渡らなかったので、飲み込まれてしまいました。信仰とは、問題に立ち向かわせる力を与えてくれるものです。


『信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:30)

かつて、エリコの町は、イスラエル人に対して、堅く城門を閉ざしていました。しかし、神は、ヨシュアにその城壁を崩すと言われ、エリコの城の周囲を7周回るよう指示します。ヨシュアは、神の言われたことを信じて、実行に移しました。常識的に考えれば、城の周りを回っただけで、城壁が崩れることなどあり得ません。しかし、ヨシュアは神が言われたとおりになると信じて、実行しました。信仰というのは、このように信じて実行させる働きがあります。


『信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:31)

偵察に来た人たちを接待する、というのは、奉仕をすることを指しています。信仰とは、奉仕をさせる働きがあります。奉仕とは、仕えることです。神は、妻は夫に従い仕えよ、子どもは親に従い仕えよ、上司や権威に従い仕えよ、と教えています。神に対してやるように真心を込めてやりなさい、と教えています。神に仕えるように仕えるとは、信仰でやりなさい、ということです。信仰は、仕えることを促すものなのです。


このように、繰り返し、ヘブル書11章では、「信仰によって」と信仰の働きが説明されています。33節からも、続けて信仰の人々の出来事を取り上げて説明しています。なぜここまで信仰の話をするかというと、「信仰を使って、平安を手にする」、これがヘブル書のテーマであり、「安息を目指す」ことの中身だからです。安息を目指すというのは、まさに信仰を使うことなのです。


では、ヘブル書11章を通して、信仰とは一体何だと語られているのでしょうか。信仰とは、神を信じるものであることは大前提ですが、それ以外の働きとして、大きく三つにまとめてみましょう。


1) 神の約束を信じる武器

人の問題は、神の約束を信じさえすれば、解決します。信念や努力で信じるのではなく、信じられないことを認めて、神に助けを求めれば、信じさせてもらえます。信仰を機能させるためには、それを邪魔する重石を取りのけるしかありません。だから、神にそう祈りをささげることです。すると、神の約束が信じられるようになります。


2) 神を礼拝する武器

礼拝とは、神を選択することです。信仰は、何を選択すべきかを示してくれます。信仰は偶像礼拝をさせません。何が大切かというのを示してくれます。


3) 罪と戦う武器

罪とは何でしょうか。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14,15)

私たちは、死の恐怖につながれた罪の奴隷です。死の恐怖から、見えるものにしがみつき、力あるものに頼ろうとする罪が生まれています。罪の大元は、死の恐怖なのです。死の恐怖が、見えるものにしがみつかせ、それで一喜一憂させます。その原因である、死の恐怖を取り除くことができるのは、信仰しかありません。


では、この信仰という武器をどのように使えばいいでしょう。

1)素直に聞く

『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:17)

信仰を使うことの第一歩は、御言葉を素直に聞くということです。聖書が教えていても、私はそうは思わないとすると、信仰はその時点で育たなくなってしまいます。


2)告白する

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:9,10)

素直に聞いたなら、今度は聞くだけでなくて、口で告白することです。口で告白したことが、私たちの行動を、そのように導くことになります。


3)実行する

『しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:14,15)

この御言葉は、実際に聞いたことを行動に移さなければ、福音は広まらないでしょう、ということが語られています。このことから、信じたことを実際に行動に移さなければ、実際のものにはならないということが語られています。実行に移すには、葛藤が生じるでしょう。しかし、その葛藤が重要な働きをします。神に祈り、すがらせます。その中で、私たちは神への信頼を手にしていくのです。ですから、実行に移していくことです。