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2012年4月29日
『希望を語ろう』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:22−39)
『そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:22〜23)


神に近づくとは、御言葉を食べることであり、御言葉を信じることを意味します。神の言葉を食べるためには、約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白する必要があります。では、なぜ告白が必要なのでしょうか。 私たちが語る言葉は、車のハンドルと同じ役割をします。ハンドルは、小さなものですが、あの重い車を操る働きをします。同様に、人の告白する言葉が人を操っています。ですから、信じるには、まず言葉を制御することから始める必要があります。そのために、聖書は希望を告白することを教えています。


『馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。』(新約聖書 ヤコブ人への手紙 3:3〜5)


肉の価値観は、人を操作するハンドルの役割をしている言葉を操り、否定的なことを語らせます。そして、人を思いのままに操作しています。ですから、御言葉を信じるためには、肉の価値観のこうした操作と戦う必要があります。自分の意識としては、肉の価値観の影響で神の言葉を信じ切れていなくても、それに負けないで信仰を語る必要があります。そうやって、御言葉を食べさせない肉の価値観と戦っていくのです。


『また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。  私たちが集まる目的は、神に近づくように励まし合うためです。肉の楽しみや人間的な同情や慰めを与え合うためではなく、神の言葉を信じられるように励まし合っていくのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:24〜25)


『もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:26〜31)


この御言葉は、ヘブル書六章に書かれていたことと同じ内容が書かれています。罪のためのいけにえは、もはや残されていないとは、一度救われた者の救いが行い次第で取り消されるという話ではなく、平安が手にできないという意味です。詳しくは、ヘブル書六章の解説をご覧ください。


『あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:32〜33)

私たちは、救われたばかりのときは、確かに罪と戦い、神に近づこうとしたはずです。その頃のことを思い起こし、御言葉を信じる戦いをしましょう。


『あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:34)


いつまでも残る財産とは、神を信頼できる心です。神の言葉を信じられる心です。それは、いくらでも増やすことができます。神の言葉を信じられたら、どのような状況であっても平安でいられます。それさえあれば、問題と感じている出来事が問題ではなくなります。神の言葉が信じられ、平安を手にしていれば、そうした見た目の解決は全て神の御手にゆだねられます。神の平安が、患難を凌駕するからです。このように、信じられることで手にする平安が、いつまでも残る財産であり、問題解決の答えです。しかし、神にゆだねられずに、結果が出ないとつぶやくなら、神の言葉を信じてはいないのです。神への信頼という財産を持っていれば、たとえ見える財産を失おうとも、喜んで耐え忍ぶことができます。


『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。』(新約聖書 ヤコブ人への手紙 1:2,3)


試練は、神を信頼し、平安を増すための絶好の機会なのです。


この34節の御言葉の意味を、国産車を買うことにたとえてみましょう。あなたは国産の新車を買いに、車の店に行ったとします。そこに、気に入った車があったので、買う契約をしました。しかし、お店の人から、これは人気車種なので半年お待ちいただくことになりますと言われたとします。あなたは、新車が来るまでの半年間、どのようにして待つでしょうか。ひょっとして、だまされたのではと不安になり、心配で夜も寝られない状態になるでしょうか。ならないはずです。反対に、どのような困難に出会おうと、心の中では車をすでに手にし、もう車に乗っているでしょう。そして、この希望が失望に終わらないことを確信しているはずです。なぜそうすることができるのでしょうか。それは、契約した相手を、絶対に大丈夫と信じられるからです。


私たちが、国産の車メーカーにそれだけの信頼をするなら、神に対して持つ信頼はそれ以上ではないのでしょうか。神が言われた約束なら、絶対に大丈夫と信じられるはずではないでしょうか。信じられたのなら、どんな患難の中にあろうとも、その約束を忍耐して待てるはずです。そして、その希望は失望に終わることがないと確認できるのです。ですから、患難は喜びに変わります。これが、信じるということです。これが、魂の食事であり、問題解決の答えです。それが、

『いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:34)

の意味なのです。


いつまでも残る財産を持つことが、問題の答えです。財産は、神への信頼です。神を信じられるほどに、平安は増し加わります。私たちは、神から預かった信仰のタラントを使って、平安という財産を増やしていくのです。ここに、全ての問題の答えがあります。


人の問題解決が、神の言葉を信じることにあることを示す一つの事例が、聖書に書かれています。


『すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。』(新約聖書 マタイの福音書 9:2)


イエス様は、ここで「あなたの罪は赦された」と宣言されました。その理由は、「彼らの信仰を見て」とあります。一体、何の罪が赦されたというのでしょうか。彼らは、イエス様の前で何か罪を告白し、赦しを乞うたのでしょうか。何もしていません。にもかかわらず、罪が赦されたと、彼らを代表して中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われました。


そのヒントは、「彼らの信仰を見て」という御言葉にあります。信仰を見て、罪が赦されたと言われる以上、この罪は不信仰を指すことが分かります。そもそも、罪とは不信仰そのものを指します。イエス様は、彼らが不信仰と戦い、イエス様の言葉を信じられたのを見て、罪が赦されたと宣言されたのです。この宣言から、彼らは、中風の人をイエス様の所に連れてくる前、この病気が本当にいやされるだろうかとつぶやいていたことが想像できます。私たちも、難しい病気に遭遇すればするだけ、本当にこんな難しい病気がいやされるのだろうかを思ってしまいます。彼らも、当初はそう思ったに違いありません。


しかし、彼らは「病人をいやす」というイエス様の言葉は真実だと、必死に信じる戦いをしました。そして、不信仰に勝ち、信じるに至りました。だから、中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来たのです。ダメだと思っていたなら、決して運んだりはしません。他の福音書には、大勢人がいて近づけなかったので、イエス様がおられるあたりの屋根をはがし、上から床のままつり下ろしたとあります。普通なら、あきらめてしまうような状況の中、彼らは決してあきらめずに近づいたのです。そのような行動は、イエス様を信頼することなくして、決してできるものではありません。イエス様は、そうした彼らの信仰を見て、中風の人に、あなたの罪は赦されたと宣言されました。要は、「よく、私の言葉が信じられましたね。」と言われたのです。


ここで興味深いのは、イエス様はこの病人に対して、病気がいやされたとは言わず、罪が赦されたと言われたことです。そして、そう言われただけで、ここでは病気をいやされませんでした。この人は、神に自分の病気をいやしていただこうと思って神の元に来ました。ところが、その答えは、いやされることではなく、不信仰に勝ち、罪が赦され、平安を手にすることでした。すなわち、神の言葉が信じられることが、神からの問題の解決の答えであることを示しています。


私たちは、実際に病気がいやされることが、神からの答えだと思ってしまいます。しかし、それは、神の言葉を信じ、神に求めたことの結果にすぎません。そのことをイエス様は、こう言われます。

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』(新約聖書 マタイの福音書 6:33)

と。イエス様は、まず第一、神の国とその義とを求めよと言われました。まずは、神の言葉を信じて、それを食べるようにという意味です。そうするなら、見た目の人の問題も解決すると言われました。ですから、この中風の人も、この後いやされました。いやされたのは、神の国とその義とを求め、神の言葉を信じられた結果です。


すなわち、この中風の人が手にした本当のいやしは、体のいやしではなく魂のいやしです。不信仰に勝ち、神への信頼から手にした平安こそ、彼が手にしたまことのいやしでした。ですからイエス様は、あなたの罪は赦されたと言われました。すなわち、神の言葉が信じられることが、人の問題の本当の答えなのです。


私たちは、どのような患難の中にあっても、約束された方が真実な方なのですから、希望を語ろうではありませんか。