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2012年4月15日
『つらさからの脱出』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 10章1〜18節)
『律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:1〜4)

『・・・また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:11)


盗んではならない、嘘をついてはならない、姦淫してはならない、むさぼってはならない、礼拝しなければならない、裁いてはならない・・・こうした律法では、罪を取り除くことはできず、かえって、罪を思い起こし、捧げ物の必要に迫られます。イエス様の十字架だけが、私たちの罪を取り除くことができます。


『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:18)


大変難しいことが書かれているようですが、内容は実に単純なことが言われています。イエス様が取り除いてくださる罪を感情面で捉えると、「つらさ」になります。つらいと感じるときは、罪の状態の中にあるときです。律法では、つらさを取り除くことはできません。では、つらさはどのように生じるのでしょうか。そして、つらさの解決はどこにあるのでしょうか。


私たちの体は、肉体(ちり)と魂(いのちの息)から出来ています。

『神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

見える物質と見えない物質から出来ています。私たちの体はもともと永遠に生きる存在として造られていましたが、アダムとエバが罪を犯したため死が入り込み、肉体は滅びる存在に、魂は神様から切り離されてしまいました。肉体の死は、人に恐れを抱かせ、魂の死(霊的死)は、人の心に不安と空しさをもたらしました。人のつらさの原因はここにあります。


『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)


私たちの魂は、神の言葉を食べるように造られたので、それが食べられないとつらくなってしまいます。神との関係が断たれた中で生まれてきた私たちは、つらさを背負って生きています。そのつらさは、私たちに大変な苦痛をもたらします。ですから、その苦痛をごまかすために、私たちは痛み止めを飲んでいます。ちょうど体に痛みを覚えたら、痛み止めの薬を飲むように。痛み止めの薬を飲むと、痛みは和らぎますが、しかし、薬が切れると、また痛みに襲われます。それは、痛みの原因を治した訳ではないからです。


私たちの心の痛み止めは、「人から良く思われること」と「富を手にすること」です。人からほめられたり、愛されたり、人との関わりで、人の心の痛みはごまかせます。また、富を手にすると、どういうわけか安心してしまいます。これらを心に食べさせると、心は一時満足し、自分が痛みを抱えていたことを忘れてしまいます。しかし、時間が経つと、必ず、その痛み止めの効果は消え、再び心に痛みが襲ってきます。しかも、痛みの元を治療せず、痛み止めでごまかし、放置してきたため、ますます痛みは激しいものとなってしまいます。イエス様は、この二つの痛み止めを、「この世の心づかい」と「富の惑わし」と言われました。


『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)


神の言葉を食べれば、平安をいう実がなります。しかし、「この世の心づかい」と「富の惑わし」が邪魔して、実がならないのです。これが私たちの現状です。


人がつらいと感じるのは、魂が食事を食べて、平安の実を結んでいないからです。これが全ての原因です。しかし、私たちは、そうは思わないのです。自分がつらくなったのは、出来事のせいだと思ってしまいます。例えば、仕事がうまくいかないとします。すると、人は、つらいのは仕事のせいだと思います。確かに、仕事がきっかけでつらくなったのはそのとおりでしょう。しかし、原因は仕事にあるわけではありません。今まで仕事というものでごまかしてきた、神の言葉を食べていないつらさが明らかになったというだけです。仕事で心の痛みをごまかせなくなったからつらくなったにすぎません。


ですから、つらさの解決はただ一つだけです。イエス・キリストの言葉を食べる、それが解決なのです。でも、人は行いで出来事を解決しようとします。つらくなると、人に慰めや同情を求めたり、裁いたり、状況を改善させることでつらさから逃れようとします。イエス様は、人のつらさの原因は、出来事にないことを教えられました。


『イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。』(新約聖書 マタイの福音書 8:23〜26)


私たちは、様々な問題にぶつかります。そういう問題にぶつかったとき、人はみなつらさを覚えます。弟子たちも、大暴風が起きて、舟が大波をかぶりました。そのとき、心の中は不安でいっぱいだったでしょう。イエス様は、そんな弟子たちの様子を見て、信仰が薄いと言われました。信仰は、神の言葉を食べるために与えられたものです。要は、神の言葉で安心していないために不安になっていると言われたのです。ここが重要なポイントです。大暴風の中でもイエス様は平気で寝ておられたということは、出来事によって平安が乱されるわけではないことを意味しています。すなわち、イエス様は「つらさ」である恐れや不安、落ち込みやねたみ、イライラや怒り、こうした人を苦しめる悪い思いの原因は、信仰が薄いからだと言い切っているのです。


『また、イエス様はこうも言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:33)


イエス様は、私たちが「平安」を持つために話をしてきたと言われました。その平安は、イエス様を信頼することでの平安です。この平安が、肉の意識のつらさ(患難)を凌駕するから、勇敢であれと言われました。世というのは、罪を言い表した言い方です。ですから、「世にあっては患難があります。」とは、見えるものをむさぼる肉の価値観の生き方(罪)にあっては、患難(つらさ)がありますという意味になります。


イエス様は、その罪である世を取り除くために来られ、すでに世に勝利したと言われました。つらさの原因を排除してくださったのです。ですから、患難というつらさの中にあっても、その罪に負けることなく、つらさに勝利し、勇敢であれと言われました。すなわち、どんなにつらい出来事(患難)に会っても、神を信頼することができていれば平安が持て、つらさをもたらす見えるものにしがみつく罪を凌駕するというのです。このイエス様の言葉も、「つらさ」と「出来事」とは本来、全く無関係であることを教えています。


医者から、あなたは余命一ヶ月だと宣告されたとします。どうでしょうか。あなたが今問題だと思っていることは、目前に迫った死という問題に凌駕されないでしょうか。人はみな例外なく死を背負っています。いつとは知らされていないものの、みな死の宣告を受けて生きているのです。そんな現実を抱えているにもかかわらず、私たちは見せかけの問題に翻弄されています。


イエス様は、私たちの問題を解決すべく、十字架にかかられました。肉体の死は、イエス様がよみがえって見せてくださったように、私たちも死んだ後、新しいからだによみがえると約束されました。霊的な死は、イエス様を信じることによって、再び神につながるようにされたので、私たちは神の言葉が食べられるようになりました。ですから、食べればいいだけです。イエス様は、もう解決してくださっています。あとは、私たちが、そこから、真の解決を手にして生きればいいだけです。