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2012年4月1日礼拝メッセージ
『十字架の贖いは完全』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 9章)

『イエス様が来られるまでは、罪の赦しを乞うために、幕屋という移動式の神殿で儀式が捧げられていました。第一の幕屋では、いつも礼拝が捧げられ、第二の幕屋では、年に一度大祭司が民の罪のためにいけにえを捧げていました。罪の罰は、死です。ですから、その罰を免除されるためには、代わりに誰かが死を以て精算する必要があります。そのために、動物がいけにえとして捧げられていました。こうした儀式は、十字架の贖いを示す比喩でした。(新約聖書 ヘブル人への手紙 9:1〜8)

『この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 9:9)


当時の捧げ物は、罪の行いを精算することはできましたが、良心を完全にすることはできませんでした。うわべの行いを良くすることはできても、心の中を綺麗にすることまではできませんでした。


『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 9:11〜12)

『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 9:14)



イエス様は人間の手で造った幕屋ではなく、本物の幕屋を通られ、ご自分のいのちを捧げられました。何度も繰り返し、犠牲を捧げるのではなく、ただ一度、十字架に掛かられ、永遠の贖いを成し遂げられました。イエス様の永遠の贖いは、私たちの良心をきよめ、死んだ行いから離れさせ、キリストに仕える者とします。キリストが来られるまで幕屋で行われていたとりなしは、良心をきよめることまではできませんでした。しかしイエス様のとりなしは、良心からきよめることができます。良心がきよめられなければ、良い行いはできません。


・では、良心をきよめるとは何でしょう?

神は、人の心に、神を愛する心を植えつけました。これを良心といいます。みな神を愛する心を持っています。人の心は、神を愛することで満たされるようになっていました。ところが、私たちは、神を愛する心を、別なものに使ってしまっています。富や人からの愛で、心を満たそうとしているのです。例えば、世の中で何かをしてほめられたり、手に入れられたりしたら、心がうきうきします。ところが、しばらくすると空しさがきます。心の中が満たされないのです。だから、それを埋めようとして、また、見えるもので心を満たそうと必死になります。しかし、どんなに手に入れても、しばらくすると空しさがやってきてしまうのです。


こうして人は、○○が足りないから満たされない、と大きな勘違いをしてしまいます。心が満たされないのは、見えるものが足りないからではありません。私たちの心が、神を愛することで満たされようという方向に向かないから、平安がないのです。神との関係が築かれていかない限り、私たちの心には平安がきません。良心をきよめるというのは、こうした間違った目的で使われてしまっている良心を、元に戻すことをいいます。神への信頼を深め、神とのつながりを強固にすることを指します。


では、どのように、良心はきよめられるのでしょう。私たちは、満たされない心を何とか満たそうと、今まで、必死に課せられた条件をクリアーしようとして生きてきました。子どもは親に愛されるため、親の条件を必死にクリアーしようとします。会社では、上司に認められるため、目標を達成しなければなりません。こうした条件は、私たちの心に大きくのしかかり、不安が増し加わっていきます。すると、人は人との接触が恐ろしくなります。また、何か条件を課せられたらどうしようと怯えてしまうのです。


これを何とかする方法は一つしかありません。それは、無条件で愛されることです。キリストの贖いは、私たちに一切の条件を課しません。しかも、私たちが隠したい罪を隠さずに出せばいいと言っておられます。その罪は、そのまま赦され、私たちは、それによって無条件に愛されていることを知ります。世の中では、悪いことをすれば、罰を受けます。しかし、神は罰を与えないのです。そのとき、私たちは神の愛を知り、神を愛するようになり、良心がきよめられるのです。すると、今まで心を満たすために課せられていた条件が、心の負担ではなくなり、愛によって対処することができるようになるのです。


・死んだ行いから離れさせるとは何でしょう?

何かの見返りを期待してやることを「死んだ行い」といいます。私たちは、良心の使い方が間違っているため、人から見返りを得ようとしてしまいます。互いが見返りを期待し合うから、争いが起きます。見返りを期待して、それを相手に要求するから、要求を満たしてくれないあなたが悪い、といった争いが絶えなくなってしまうのです。しかし、キリストの赦しを受けることで、良心がきよめられると、私たちは、見返りを期待する死んだ行いから離れていくことができます。私たちが日常的に、腹を立てたり、頭にきたりするのは、見返りを期待するからです。見返りを期待しない行動ができれば、平和が保たれるようになります。


・生ける神に仕える者とするとは何でしょう?

神は、人を造られたときに、全員同じ顔、同じ能力にすることもできました。しかし、神はなぜそうせず、一人一人を違うものとして造られたのでしょうか。それは、キリストのからだの働きを担うためです。私たちは、良心がきよめられると、自分の役割が見えてきます。イエス・キリストのとりなしは、私たちの心に平安を与え、行いを変え、生き方自体を変えていくということです。


『こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。・・・キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 9:15〜28)


私たちは、イエス様の十字架の贖いによって、もう罪の罰を赦されています。では、なぜ罪を告白して、赦されなければならないのでしょうか。なぜ、罪をいちいち告白して赦されなければならないのでしょうか。それは、罪をもたらした悪を掃除するためです。罪の罰はもう取り去られたので、悔い改める度に、罰が免除されるわけではありません。罪が赦されるというのは、私たちの中に残っている悪を取り除くためです。この掃除のために、私たちは罪を告白します。「赦される」というのは、悪を取り除かれるという意味なのです。


私たちクリスチャンには、もう罪の罰はありません。しかし、実際の私たちは、心のどこかで、自分の罪が赦されるために、何か良い行いをしなければならないと思っています。天国に行けるように、罪を言い表さなければと思っています。自分でどうにかして、自分の罪を精算しなければ、天国には行けないと思い込んでいます。そう思った瞬間に、聖書の言葉はまるで違うものになるのです。救われるためには何をすればいいか、という視点で、聖書を読んでしまいます。全く違う方向に進んでしまうのです。


私たちは、何も心配せず、自分の中にある罪を見つけ、それを神に差し出したらよいのです。そうすれば、悪からきよめられていきます。悪というのは、見えるもので心を満たそうとすることです。神ではなくて、別なもので満たそうとすることを、悪、不信仰、偶像礼拝と色んな言い方をします。私たちは、自分の力では、悪を取り除くことはできません。幕屋の時代、良心をきよめることができなかったように、人の力では無理なのです。しかし、イエス様は、罪を言い表せば、神が悪を取り除いてくださる方です。私たちはこうして、キリストによって良心がきよめられ、平安を得ることができるのです。