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2012年3月4日礼拝メッセージ
『罪とは何か』

ヘブル書では、モーセに引き連れられたイスラエルの民が約束の地(安息)を目指して進んだように、クリスチャンは安息を目指して進もうということが述べられています。それと同時に、イスラエルの民は、安息を目指しましたが、そこに入ることができなかったことについても述べられています。

『それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:19)

このことを通して、私たちが安息に入るためには、「不信仰」の罪に気づいて、神に差し出さなければ、そこに入ることができないことを知ることができます。では、その差し出すべき「不信仰」の罪について、今回は学んでいきましょう。


聖書にこういう御言葉があります。

『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。』(新約聖書 マタイの福音書 5:21〜22)


こうした御言葉を読むと、自分は、兄弟に向かって腹を立てるし、ばか者というようなことを言ってしまうので、ゲヘナ(地獄)に投げ込まれる罰を受けるのではないかと恐れる人がいます。確かに、私たちは、罪を犯すので、本来なら罰を受けなければなりません。しかし、イエス様が十字架でその罰を代わりに受けてくださったので、イエス・キリストを信じる者は、罰を受けることはなくなりました。


ただし、罰がなくなったというだけで、私たちの中の罪がなくなったわけではありません。クリスチャンになっても、私たちは罪を犯してしまうのです。では、神を信じ、クリスチャンになって何が変わるのかというと、罰がなくなったので、恐れずに罪を認められるようになるという点です。私たちは、罪について学んでいくとき、まず、このことを肝に銘じておく必要があります。なぜなら、そのことが分かっていないと、人は罰を恐れて、罪を隠してしまうからです。ヘブル書はそのことを教えるために、何度もイエス様のことを、罪をとりなす大祭司だと述べています。


クリスチャンにとって重要なのは、罪を見つけることです。安息に入ることを妨げる、不信仰の罪を見つけて、それを神に差し出せば、神はそれを取り除いてくださり、神への信頼は増し加わり、そのことがそのまま平安になるからです。上記の御言葉では、罪の物差しが書かれています。人を殺すものも、腹を立てる者も、能なしと言う者も、ばか者と言う者も、みな同じ罰を受ける同じ罪として見なされています。これらの行為に共通するのは、「腹を立てる思い」です。人は、腹を立てなければ、人を殺すこともないし、能なしとかばか者と言うこともありません。イエス様は、さらに続けてこう言われました。


『『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:27〜28)


心の中で情欲をいだくことは、実際に行為に至ったのと同じだと言われました。つまり、神は罪を行為ではなく、思いで判断しておられます。では、「情欲」や「腹を立てる思い」の下には、何が隠れているのでしょうか。


人が腹を立てるのは、腹を立てて相手を自分の思いどおりに動かしたいからです。つまり、相手を支配したいのです。相手を支配できると、なぜか自分が価値ある者に思えます。価値ある者に思えると、人は、満足します。ですから、人は満足したくて腹を立てるのです。では、なぜ満足したいのでしょうか。それは、自分が何者か分からないという不安を消したいからです。これは、霊的な死(神との関係が断たれる)の結果、人に入り込んだ不安です。私たちはクリスチャンとなり、神との関係が回復されたので、私たちはもう不安を抱えなくていいのですが、神ではないもので不安を消そうとする古い習慣が残っていて、未だに自分が何者か分からない生き方をしています。そして、人は、何とかその不安から逃れようと、自分の価値を、自分の役割を人の中で見いだそうとしてしまいます。それが、人を支配して満足したいという思いにつながっています。こうした、人から満足を得ようとする生き方を、イエス様は「この世の心づかい」とも言われました。人からよく思われることで、安心を得ようとする思いです。


では、もう一つの思い「情欲」はどうでしょう。情欲とは、私たちに与えられた性欲を、快楽に使うことです。言うまでもなく、人は快楽を求めて満足しようとしています。ではなぜ、人は快楽を求めるのでしょうか。それを掘り下げていくと、私たちの心の中に恐れが見えてきます。私たちの心には、肉体の死に対する恐れがあって、恐れをまともに見ることができません。誰でも、危険が迫ったときに、とっさに身を守るのは、死にたくないと思っているからです。私たちの潜在意識は、死を恐れる思いで満ちています。ですから、人は死ぬという現実から、目を逸らしながら生きています。そして、快楽を求めて、気晴らしをします。快楽を求めると、簡単に死ぬという現実や、恐れを忘れることができるからです。こうして、人は快楽に走ることで、満足を得ようとしています。


このように見ていくと、腹を立てる思いにも、情欲にも、共通の物差しが見つかりました。それは、「見えるもので満足を得ようとする心」です。神は、これを罪だと言われました。見えるもので満足を得ようとするときの心の向きは、見えるものに向かっています。これが神にとっては、問題なのです。神の用意されている平安は、神に心を向けなければ、手に入らないからです。


このように、神は、心の向きが神からそれることを罪の物差しにしています。聖書で、「罪」という単語は、ハマルティアというギリシャ語が用いられていて、「的をはずす」という意味があります。つまり心の向きが神という的から外れることを意味しています。反対に、「悔い改める」という単語は、メタノイアというギリシャ語が用いられていて、「方向を変える」という意味があります。これは、神に心を向けることを意味します。神は、常に心の向きを問題にしておられます。


では、イエス様が、心の向きを問題された出来事を紹介しましょう。かつて、弟子のペテロがイエス様に「下がれ。サタン。」と言われたことがありました。

『しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(新約聖書 マタイの福音書 16:23)


ペテロは何をしたのでしょうか。その頃イエス様は、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないということを弟子たちに示し始められました。それを聞いたペテロは、彼らがそんなことを聞いたらどういうことになるか恐れて、イエス様をいさめました。「神が守ってくださいますから、あなたにそんなことが起こるはずはありません」と。イエス様の言葉を完全否定したのです。彼の心は、イエス様の言葉を信じようとするのではなく、人を向いていました。イエス様は彼の中の「この世の心づかい」を指して、「下がれ。サタン。」と言われました。心の向きが問題なのです。


イエス様は、こう言われたこともありました。

『わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。・・・』(新約聖書 マタイの福音書 23:25〜29)


律法学者や、パリサイ人は、心が神に向いていませんでした。ですから、うわべだけ、良い行いをし、自分こそ価値がある人間だと思っていました。しかし、心の中は、人を裁く思いでいっぱいでした。神の言葉を信じることでではなく、裁くことで、満足を得ようとしていたのです。もし、心が神に向いていれば平安であり、裁く思いなどきません。そのことを、イエス様は指摘しておられます。


『しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:9〜10)


私たちは、自分の行いが良ければ安心します。自分が「えこひいき」くらいの罪しか犯さなければ、それで安心してしまうのが正直なところでしょう。しかし、聖書は、「えこひいき」という程度のたった一つの小さな罪があるだけでも、それには、罪の根があることの印だと教えています。それは、どういうことか、雑草にたとえてみましょう。スギナという雑草は、地下で根がつながっているので、地上に出た葉をいくら抜いたところで、次から次へと生え続けます。根が生きているからです。スギナを退治したければ、土を掘り返し、横につながった根っこごと抜くしかありません。同様に、人は、罪の行為だけ取り除いて、罪が取り除かれたと思ってしまいます。しかし、見えるもので満足しようとする罪の根は、心の奥深くに潜んでいます。それごと取り除いてもらわなければ、罪を取り除いたということにはならないのです。問題は、罪の根の部分です。


そもそも、私たちが、見える罪の量を見て、安心したり、落ち込んだりするのは、実にばかげたことです。冷静に考えれば分かることですが、見える部分の雑草の量の違いは、その人が育った幼いころの環境に依存しています。その環境は、人には選択できません。親も、人種も、時代も、場所も、生まれてくる赤ちゃんには選択できません。にもかかわらず、その違いが、現実に雑草の量を決定してしまうのです。そして、人はその量の違いから、人の価値を判断します。人の価値の物差しにもならないものを、物差しだと信じているのです。なんというばかげたことでしょうか。


聖書が教える罪とは、心が神に向いていない状態のことです。これが「不信仰」です。それは、御言葉を素直に聞こうとしない心です。マルタとマリヤは、ラザロが死んだとき、「常識」に頼り、イエス様の言葉を素直に聞こうとしませんでした。それに対して、イエス様は涙されました。彼らの心は、イエス様にではなく、常識に向けられていました。マルタとマリヤの心が神に向けられていたなら、「イエス様が言われるとおり、ラザロがよみがえるということを信じられるように助けてください」と言えたはずです。それが、心が神に向くということです。


イスラエルの民が安息には入れなかったのは、心の向きがイエス様を向いていなかったこの不信仰のためです。私たちは、こうした不信仰の罪に気づき、イエス様にそれを取り除いていただいて、安息を手にしていきましょう。