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2012年2月12日礼拝メッセージ
『耳が鈍くなっている』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 5章)

『大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。・・・』(新約聖書 ヘブル人への手紙 5:1〜4)


旧約時代、大祭司は、人々の犯した罪の赦しを神に乞うため、いけにえを捧げてとりなすのが務めでした。イエス様は、大祭司の務めをするためにこの世に来られ、私たちの罪の罰をその十字架で無効にされ、私たちの罪を赦すためとりなしをしてくださいます。


『・・・キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 5:5〜10)


メルキゼデクは、アブラハムが仕えた祭司です。信仰の父と呼ばれるアブラハムが仕えた祭司ですから、祭司の中の祭司として人々に知られていました。イエス様は、そのメルキゼデクの位に等しい大祭司となられましたが、どのようにその位に至ったかというと、みこころに従い「従順」を学ばれたことによってです。


聖書は、旧約時代から、従うことに関して徹底して教えています。新約聖書では、それをさらに細かに指示されています。


『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:22)

『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:1)

『奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:5〜7)

『人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 13:1)



目に見える権威に従えない者は、目に見えない権威に従えません。御言葉に従うには、自分の従うべき権威に従うという姿勢のない人にはできません。ですから、神はそれぞれに従う権威を用意され、従う練習をさせます。それは、神の命令である御言葉を実行させたいからです。神が御言葉を実行させたいと考えておられるのは、ひとえに、御言葉を実行することで、罪に気づかせ、その罪を赦したいと考えておられるからです。


『この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 5:11)

私たちの耳が鈍くなっているとは、どういうことでしょう。そのことを知るために、次の絵を見てください。

この絵は、大変よく知られている絵です。あなたには、どう見えるでしょうか。これに描かれているのは、美しい女性のようでもあるし、おばあさんのようでもあります。同じ一枚の絵なのに、どちらに見えるかは、人それぞれです。なぜ、人によって見え方が異なるかといえば、それぞれが自分のフィルターを通して、物事を見ているからです。


では、今度は下記の図を見てください。左側の図は平面に見えます。しかし、その図に、ある線を加えると、立体に見えます。それが右側の図です。では、この立体に見える右の図は、本当に立体なのでしょうか。確かに立体には見えますが、実際は平面です。今まで私たちの積み上げてきた経験が、この形に見えたら立体だと判断させ、脳の中に立体を描かせます。ですから、立体に見えます。今までの経験が、意味を補う結果です。


私たちは、こうした学習能力を持っています。経験を積んで学習してきたことを脳が記憶し、意味を補完するのです。そのことを知る、分かりやすい例があります。人は、大人になるにつれ、乗り物酔いを起こしやすくなります。幼いときは何でもなかったのに、次第に乗り物酔いを起こすようになります。なぜそうなるのかというと、人は年を重ねることで、目に入る風景と、そのとき体に伝わる動きのパターンの経験を積み上げていきます。この積み上げた経験が、乗り物酔いを起こさせるのです。


どういうことかというと、車に乗っていると、右に曲がる風景なのに、体は左に動いてしまいます。それは、積み上げてきた経験とは異なる動きです。それで、脳がパニックを起こし、気持ち悪くなるという仕組みです。運転する人は酔わないといいますが、それは、右に曲がる風景のとき、無意識にハンドルを切りながら右に体を倒しているからです。人の積み上げた経験が、勝手に想像を引き起こし、現実を正しく把握させないのです。


なぜこのような話をしているかというと、同様のことが、私たちが聖書を読むときにも起きるからです。神が言わんとしていることを、別の意味に置き換えてしまうのです。私たちは、小さい頃から、悪いことをすれば罰を受ける、という経験をしてきました。ですから、行いには罰が伴う、というフィルターが出来上がってしまっています。その結果、御言葉を読むときにも、このフィルターを通して勝手に意味を補完してしまうのです。では、具体的に、御言葉を通して、私たちがそういうことをやってしまっている分かりやすい例を見ていきましょう。


『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:2)

この御言葉の前半部分「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、」を、この世で培われたフィルターで読むなら、良い行いが伴わない者は神からの罰を受け、神の国へは入れてもらえないと読んでしまいます。これまでの積み上げてきた経験というフィルターが、無意識に意味を補足してしまうためです。「実」を勝手に「行い」だと解釈し、「取り除き」を「罰」だと解釈してしまいます。ですから、実がならなければ罰を受け、地獄に行くと思ってしまうのです。救いが取り消されてしまうと恐れてしまうのです。


確かに、この世では、主人の言うことが実行できなければ、それ相当の罰を受けます。そうした体験は、幼い頃から親に叱られることで、また、周りの人が叱られている姿を見ることを通して、身につけてきました。ですから、相手の期待に応えられない=罰を受けると思ってしまいます。その考えが、神の期待に応えられず、実がならなければ罰を受けても仕方ないと思わせてしまうのです。「取り除く」という言葉を見ると過敏に反応してしまうのは、そのためです。


この御言葉の本来の意味は、「実」は「平安」であり、「取り除き」は「手入れする」ことを指しています。「取り除き」は、イエス様がこの話をする直前に弟子の足の泥を洗われたこととも重ねられています。泥は、人の罪を表していました。すなわち、実がならない場合、神は何としても実がなるように罪を取り除かれるのです。そのことを、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」と言われました。父が取り除くのは、人ではなく、罪です。救いを取り消すなどという意味は、そこには全くありません。ですから、この「取り除き」と訳されたギリシャ語は、「持ち上げる」とか「支える」とも訳せる言葉です。父は、私たちを持ち上げ、支え、罪を取り除いてくださる方です。


このように、私たちがこれまでの経験から培ってきたフィルターによって、その実体をかけ離れたものとして理解してしまうことを、聖書は、耳が鈍くなっている、と言っているのです。もしかしたら自分の耳は鈍く、本来の姿を、自分のフィルターを通して、違うように受け止めているかもしれない、と思えるならば幸いです。そういう心で御言葉を実行していくと、フィルターに気づくことができます。このフィルターこそ、「この世の心づかい」と「富の惑わし」であり、神に取り除いてもらうべき罪です。


『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 5:12〜14)


ここで、パウロは皮肉交じりに述べていますが、それは、みなが御言葉を実行する人になってほしいからです。御言葉を実行すれば、罪に気づき、それを悔い改めて、赦しの恵みに預かり、神への信頼を手にすることができます。これを、パウロは、幼子と大人という表現を用いて説明しています。


「乳ばかり飲む」とは、御言葉を聞くだけで、実行しようとしない人のことです。「堅い食物」とは、御言葉を実行して、罪に気づくことをいいます。「経験」とは、赦しの恵みを指します。


つまり、御言葉を聞くだけで実行しなければ、いつまで経っても幼子のままで、何が罪で、何が恵みかに気づくことができません。しかし、御言葉を実行して、罪に気づいて、罪が赦されるという経験を積む人は、罪が何かが見えるようになり、神の愛が見えるようになり、豊かな成長を遂げられるのです。