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2012年1月22日礼拝メッセージ
『安息の地』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 3章)

今回は、ヘブル書3章に入るための前段の学びとして、「安息」について学んでいきます。聖書は、一つのことを説明するのに、様々な表現を用いています。人それぞれイメージしやすい言葉は違うため、一人でも多くの人が理解できるように、様々な言葉が用いられています。これからヘブル書3,4章で出てくる「安息」という言葉もその一つです。安息とは、私たちが求めている「平安」を指しますが、それを「安息」と表現した方が、イメージしやすい人もいます。ですから、こうした表現で述べられています。しかし、実体は一つです。神は私たちに「安息」を与えたいと思っておられ、私たちもまた「安息」を求めて生きています。


さて、聖書の中には、たくさんの手紙が書かれていますが、こうした手紙を読むとき大切なのは、誰に宛てて書かれた手紙かということです。ヘブル書は、ローマ帝国の迫害下にあるクリスチャン(ユダヤ人が中心)に対して書かれたものです。彼らは、イエス様を信じて救われはしたけれども、激しい迫害の中で、イエス様は何者だったのだろうかという疑問を持つようになり、このまま信じていて大丈夫なのだろうかという不安に苛まれるようになりました。そんな彼らに、励ましとして書かれたのがヘブル書です。


1、2章では、まずイエス様は神であり、あなたがたは、救われているから安心しなさいという確認をしています。そして、3章からは、救われた者たちがどのように歩んでいけばいいのか道が示されていきます。救われるというのはゴールではなく、あくまでも入り口です。人は救われても、不安を抱えています。ですから、神はその不安を取り除き、平安を与える道を歩ませたいと願っておられます。あなたがたは救われたのだから、これからは安心して、平安を求めて進みなさいというのが、これから読み進めるヘブル書に書かれていること中身であり、このことは、ヘブル書に限らず、聖書全体が一貫して述べていることです。


ヘブル書3,4章では、モーセのことが取り上げられます。モーセは、エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民を引き連れて、「安息の地」を目指して進みました。安息の地とは、神がアブラハムに与えると約束された「カナンの地」のことです。聖書は、旧約時代の出来事を「型」とし、その型の意味を新約聖書で説き明かしています。モーセのこの出来事は、「平安」を目指して進む人生の型として読むことができます。


モーセとイスラエルの民は、約束の地を目指しますが、エジプト軍に追われてしまいます。行く手は、紅海が立ちふさがり、彼らはエジプト軍から逃げ切れなくなりました。そのとき、神は彼らを助けられました。紅海を二つに割り、その中にできた道をモーセとイスラエルの民に渡らせたのです。後を追ってきたエジプトの軍もその中を通ろうとしましたが、海はすぐさま元に戻り、水に呑まれてしまいました。この出来事は、「死」という敵が十字架で滅ぼされたことを示したことの型です。また、モーセとイスラエルの民が海を渡ったことは、今日のバプテスマの型であり、救いの恵みに預かることを象徴しています。


『そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:1〜4)


ちなみに、神がモーセに与えた十戒には、安息日を覚えよ、とあります。安息日を覚えることで、神は、イスラエルの民がエジプトの地の奴隷生活から、紅海を渡って助け出された恵みを忘れることのないようにされました。


このように、モーセが紅海を渡る出来事は、バプテスマの型であり、救いの恵みに預かることを意味しますが、ここで一つ確認しておくべきことがあります。それは、一度、神を信じ救いの恵みに預かった者は、救いが取り消されることはあるのかということです。イエス様は、これに関して、こう断言しておられます。

『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:28)

これは、将来にわたり、絶対に起こらないことを、非常に激しく宣言した言い方です。(ギリシャ語で不定過去仮定法と二重否定を用いた表現。)イエス様は、一度救われた者は、決して救いが取り消されることはないと言われました。


このことの理解は非常に重要です。それは、Tコリントのこの先の御言葉を読めば分かります。一度救われた者は、決して滅びることがないというイエス様の言葉を基準に御言葉を読まないと、みな好き勝手に言葉の意味を解釈してしまうからです。


『にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:5,6)



ここに、彼らは「滅ぼされました。」とあります。この御言葉を読むとき、彼らの救いは取り消され、天国には行けなかったと解釈されてしまうことが多いです。しかし、紅海を渡った彼らは、神を信じ救われていた人々です。ですから、イエス様の言葉を照らし合せるなら、彼らの救いは決して取り消されていません。では、「滅ぼされた」というのは、どういう意味なのでしょうか。それは、「平安」を手に入れることができなかったという意味です。神は、救われた者には、次に平安を与えたいと思っておられますが、それを手に入れることができなかったということです。決して、救いが取り消されたという意味ではありません。


彼らは、40年間荒野で生活します。荒野での生活は、不信仰との戦いでもありました。神が必要を備え、導いてくださるということをどこまで信頼できるかという戦いです。この荒野での生活は、まさに、神への信頼を増し加える道のりの型であります。しかし、彼らは、紅海を渡って助けられた、という奇跡を体験していながらも、ことあるごとに、神につぶやき、安心を得るために見えるものに頼り、快楽で心を満たそうとしました。こうした神に心を向けないことを「偶像礼拝」と言いますが、彼らは偶像礼拝を続けたので、神への信頼を築くことができず、平安を得ることはありませんでした。そのことに対して、「荒野で滅ぼされました」という表現が用いられているのです。


私たちは、神を信じて救われたら、必ず天国に行くことができます。しかし、この地上で、見えるものをむさぼる偶像礼拝の罪と戦わなければ、「平安」を手に入れることはできません。なぜなら、平安は、神により頼む心そのものだからです。「救いの恵み」は、私たちの行いによらず与えられますが、その後、神への信頼を増し加え、平安を得るかどうかは、私たちの行いに依存します。私たちが、御言葉に従い、罪に気づいて、その罪を神に差し出すという行いに依存します。これをしない限り、平安を手にすることはできないのです。


神の御心は、私たちが救いの恵みを受けるだけではなく、与えられた永遠のいのちを豊かに保つ(神への信頼を増し加える)ことにあります。

『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:10)

こうしたことを踏まえ、次週は、ヘブル書3章から読み進めていきましょう。