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2012年1月15日礼拝メッセージ
『十字架の意味』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 2章)

『ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:1)


私たちの脳は、情報がなければ動きません。私たちが生まれた国の言葉をしゃべり、生まれた国の習慣に従って生きるのは、そういう情報が脳に入れられたからです。脳は、集められた情報をすべて記憶していますが、しかし、人が意識できる領域は限られていて、多くの情報は意識できない潜在意識の中に閉じ込められてしまいます。ですから、脳の中では、意識できる領域に入れる情報の取り合いが生じます。聖書の言葉も、一度聞けば、必ず脳のどこかに記憶されていますが、意識の中は、どんどん新しい情報が上書きされていき、この世の中の情報が入れば入るほど、御言葉は押し流さていってしまいます。ですから、聖書は、日々御言葉を心に留めることを教えています。


『ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。』(旧約聖書 ヨシュア記 1:7)



かつて、神はモーセを通して、人々に戒めを与えました。モーセの後を継いだのが、ヨシュアです。そのヨシュアに、神は、モーセに与えた律法を守り行うように言っています。そして、それを口から離さないように言っています。そうすれば、右にも左にもそれないで、進むことができると。神の言葉は、私たちの指標ですから、正しい方向に進んでいくことができます。私たちの心になくてはならない情報は、神の言葉です。ですから、それをいつも意識の中に保つには、日々御言葉を確認していく必要があります。私たちの心の不安を取り除くのは、人の言葉ではありません。神の言葉は、私たちの心を強くしてくれます。


『もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:2〜4)


神の言葉の中で最も重要なのは、救いに関して語られた言葉です。ここに「こんなにすばらしい救い」とありますが、何がすばらしいのでしょうか。それは、神は私たちの一切の罪を問われないということです。ただ信じさえすれば救われ、神が共にいてくださるという恵みに預かれます。世の中の宗教はすべて、行いをすれば救われる、と言いますが、神は、イエス・キリストを信じさえすれば救われると言われました。誰でも、その能力によらず、過去に犯したものによらず救われるのです。こんなにすばらしい救いがあるでしょうか。このすばらしい救いをないがしろにするなら、救われる道はないと聖書は述べています。


『・・・それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:8〜10)


万物は御子であるイエス・キリストによって造られたにもかかわらず、多くの人がイエス様に従ってはいません。しかし、私たちはイエス様を見ています。イエス様は、先ほど見た「こんなにすばらしい救い」の創始者です。なぜ、イエス様が救いの創始者なのかと言えば、イエス様が私たちを造られた方だからです。造った方にしか造られた者の問題を解決することができないというのは、まことに理にかなったことです。イエス様は、人の問題を解決するために、十字架にかかられました。私たちには、イエス様を信じることによって救われるという道以外に、救われる道はありません。


『聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:11)


人は、もともとキリストのからだの一部分として造られました。ですから、元は一つなのです。この関係を元に戻せるのは、イエス・キリストしかいません。どんなに私たちの行いが悪くても、神は私たちを行いで見ることはせず、「兄弟」と呼ぶことを恥とはされません。


『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:12,13)


神は、モーセにご自分の名を明らかにされました。今日では、神性四文字と言われる「YHWH」です。しかし、その名前を勝手に唱えてはいけないと言われました。ですから、人々は、「主」(アドナイ)と呼びました。旧約聖書に、「主」と太字で書かれているのは、神の御名を指しています。新約時代になって、その神の御名は、「イエス・キリスト」だとはっきり教えられました。


『皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。・・・この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。』(新約聖書 使途の働き 4:10〜12)



『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14,15)


聖書は、私たちは、死の恐怖につながれた奴隷だと教えています。死の恐怖から、人は見えるものにしがみついてしまいます。しがみついたもので何とか安心を得ようとするので、しがみついたものが思いどおりにならなかったり、しがみつけなくなったりすると、人はつらくなり、そこから、人をねたんだり、憎んだり、さらには、罪の行為を犯してしまいます。こうして、人は、死の恐怖によって罪を犯し続ける、死の恐怖の奴隷として生きています。イエス様は、この死の恐怖を取り除くために十字架にかかられ、人に罪を犯させ、罰としての「死」を持ち込むことができる「死の力を持つ者」である悪魔を滅ぼされました。滅ぼすというのは、主権を奪うということです。イエス様が、悪魔を滅ぼされたことから分かるのは、私たちが罪を犯してしまうのは、悪魔のしわざだということです。私たちが悪い者だから、罪を犯してしまうのではありません。イエス様は、それを私たちに理解させるため、私たちの罪を病気のようなものだと言われます。


『主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:16〜18)


イエス様は、私たちと同じ肉体を持たれ、死の恐怖を体験されました。ですから、私たちが死の恐怖で何かにしがみつかなければいられないことをよくご存じです。イエス様だけが、私たちのこの弱さを受け止めてくださいます。しかし、私たちは、そのイエス様に目を向けるのではなく、見えるものにしがみつき、そこから何とか平安を得ようとする偶像礼拝の罪を日々犯しています。その罪を素直に神の前に告白し、神に助けを乞うとき、神はあなたの罪を赦し、神の愛に触れさせてくださいます。