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2012年1月1日新年礼拝
『あなたは良い者』

人は神によって造られました。神はどのように人を造られたのでしょうか。これを正しく理解しておかないと、全ての物の見方、考え方が、おかしな方向へ行ってしまいます。神は人を造られたとき、こう言われました。

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』(旧約聖書 創世記 1:31)


神は、私たちを造られたとき、その出来を見て、非常に良いと言われました。では、なぜ神は私たちを良いとみなされたのでしょう。私たちは、自分を見ると、悪いことをするし、出来ないこともたくさんあるので、ダメな者だと思っています。しかし、神はそのようにご覧になりません。神が、私たちを良い者だと言われる3つの根拠を見ていきましょう。


1.神に似せて造られたからです

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』(旧約聖書 創世記 1:26,27)

神様は素晴らしい方です。その方に似せて造られたのですから私たちも当然良い者なのです。


2.神のいのちの一部として造られたからです

『神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

人は、神のいのちの息を吹き込まれた者です。神のいのちを分けてもらい、良い方のいのちを宿しています。こうして、私たちは良い方の一部とされたのですから、私たちは良い者なのです。


3.人はみな神の作品として造られたからです

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:10)

作品というのは、良いものを目指して造るから作品といいます。私たちは、神の作品です。ですから、良い者なのです。


このように、私たちが良い者であることの3つの理由を見ましたが、私たちは、自分の罪やできないことを見ると、自分はダメな者だと思ってしまいます。そして、何とか頑張って良い者になろうとして生きています。神は、この生き方を間違っていると言われました。


私たちは、宝石で言うならダイヤモンドのようです。ところが、自分を醜いものだと思っているので、何とか頑張ってダイヤモンドにならなければいけないと頑張ってしまいます。人工ダイヤモンドは、黒鉛に圧力をかけて作ることができますが、私たちも同様に、自分の悪いところをたたいて、何とかダイヤモンドになろうとしてしまいます。しかし、私たちはもうすでにダイヤモンドです。ただ、そのダイヤモンドに、たくさんの汚れがついてしまいました。それが、私たちの罪です。泥を落とせば、元の輝きが見えてきます。ですから、私たちがやっていくことは、イエス・キリストに泥を落としてもらうことなのです。良い者になるように、つくり変えてもらうことではありません。


人についた泥はたくさんあります。人は、自分の価値を、世の評判や富で得られると信じ、逆にたくさんの汚れをつけてきました。これは、自分をダメな者だと思うから、つけてしまった汚れです。もし本当に、自分が神の作品であり、良い者であると分かるなら、私たちは次のような生き方をしていきましょう。


1.相手を責めない。

人はみな良い者です。聖書は、さばけばさばかれる、と教えています。人を責めれば責めるほど、自分のことも同じように責めてしまいます。姦淫の現場で石打の刑にあっていた人に、イエス様は、あなたがたの中で罪のないものは彼女に石を投げなさい、と言われました。すると、そこに集まっていた人は、一人去り二人去り、みないなくなってしまいました。私たちは、誰も、人の泥を裁く資格はありません。イエス様は、私たちの罪(泥)を責めずに、洗い流してくださいます。もし、自分を良い者だと思うなら、人も良い者であることが分かるのです。


2.イエス様を頼る

イエス様に頼らず、人や物に頼ることは罪です。そうした泥をつける生き方ではなく、イエス様に頼る生き方をしてほしいと神は言われます。イエス様は、私たちが何かにしがみつかずにはいられない弱い存在だということをご存じです。ですから、その弱さを、人や物に向けるのではなく、神に向けてほしいと願っておられます。インマヌエルという言葉がありますが、それは、神はいつも私たちと一緒にいてくださる、という意味です。神は、私たちといつも共にいて、私たちが頼ることを待っておられます。

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:15)

大祭司とは、イエス様のことです。イエス様は、私たちの弱さをご存じです。だから、まず第一に神にすがってほしいと言っておられます。人は簡単に、人に頼ったり、見えるものに頼ったりしてしまいますが、神の一部として造られた私たちは、まず神にすがり、頼ることが、大切なのです。


3.夢をもってほしい

神は、ひとりひとりに目的もち、作品として造られました。神は、私たちに、その目的を見いだし、夢を持って生きていってほしいと言われます。夢を持って生きた二人の有名なクリスチャンについて見てみましょう。

ウォルト・ディズニーは、子どもたちに夢を与えたいという願いを持ちました。彼は、そこで、ディズニーランドを作ることにしました。ところが、彼は、ディズニーワールドの完成を見ることなく死んでしまいました。ディズニーワールドが完成したとき、人々はこう言いました。「ディズニーはさぞかしこの完成を見たかっただろうに。」と。しかし、彼と親しかった宣教師はこう言いました。「君たちは何を勘違いしているのか、彼はもうすでに心の中で完成を見ていたから、これが完成したんだよ」と。神が与える夢には、事の実現の有無にかかわらず、希望や喜びをそこに見ることができるのです。

リンカーンには、神は平等な世界を作りたい、自分はそのために役に立って生きていきたいという夢がありました。彼は何度も落選しましたが、その夢を達成するまで、どんな困難にぶつかっても、立ち上がることができました。そして、彼は黒人解放という偉業を成し遂げました。私たちも、神に造られた目的を見いだし、その夢を持ち続けて生きるなら、たとえどんな困難に出会おうとも、必ず立ち上がることができるのです。 今年も一年、人を責めず、神に頼り、夢を持ち続ける、良い者としての生き方をしていきましょう。