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2011年12月11日
『罪について』

私たちは、罪というと、嘘をついたり、盗んだり、意地悪したり、傲慢になったり、殺したり、姦淫したり、酩酊したり、怒ったり、そうした悪い行為を連想します。確かにこれらは罪です。しかし、罪が、こうした悪い行為だと思う限り、神の恵みも、悪い行為を取り除くものとしか理解されません。すると、悪い行為をしない人には、神の恵みは縁のないものになってしまいます。恵みを正しく理解し、それを大いに受けるには、罪の正しい理解が欠かせません。ですから、罪について理解を深めていきましょう。


イエス様は、罪をこのように説明されました。

『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。』(新約聖書 マタイの福音書 5:21〜22)


イエス様は、兄弟に向かってばか者と言う者も、能なしと言う者も、殺人を犯す者も、同じ罰を受けると言われました。私たちの感覚からすると、それは天と地の差ほど違いがあります。人は、罪というと、量や質を問題にします。しかし、イエス様が、それらを同罪だと言われるのは、それらの行いにある共通した点を見ておられるからです。神がご覧になるのは、うわべではなく、心です。イエス様がここで仰りたいのは、人が罪を犯せるのは、心が神を向いていないということです。神は、人の心の向きをご覧になり、罪を犯しているかどうかを判断されます。決して、行いによって罪を判断されるのではありません。神にとっての罪は、心が神に向いていないこと、この一点に尽きるのです。


そのことを聖書はこのようにも説明しています。

『しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:9〜10)

たった一つでも罪を犯せるということは、心が神を向いていない証拠です。


また、イエス様は、このようにも言われました。

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1〜4)


私たちは、行いの罪(ちり)に目をつけます。そして、それを裁き合ってしまいます。しかし、イエス様は、表の罪に目をつけ、裁きあうことをやめなさいと言われました。イエス様は、目の中の梁を問題にされています。目の中の梁とは、罪の行為を生み出す「心を神に向けない」という大本の罪のことです。自分の問題は梁にあるということに気づけば、表の罪の大小を裁くことは意味がないと分かります。表の罪の大きさは、その人が育った環境に大きく影響を受け、理性が強い人は表の罪を抑えることができるでしょう。しかし、どんなに表の罪を抑止することができても、心の向きが果たして神に向いているかは分かりません。先の御言葉にあったように、人は簡単に「えこひいき」をしてしまいます。ということは、みな神に心が向いていないのです。そうした罪の実体が分かれば、心の向きが問題だということに気づき、人をさばく資格などないことにも気づきます。


このように、人はみな罪というと、悪い思いや行いを想像しますが、本当の罪は、心が神を向いていないということなのです。