ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2010年9月19日 礼拝メッセージ
罪のまとめ『罪をならす木』
(新約聖書 マタイの福音書)

罪というと、私たちは、殺人や、姦淫などの行為を指して「罪」だと考えます。しかし、これは、氷山の一角に過ぎません。イエス様は、私たちが何か悪いことをするのは、それ以前に、「悪い思い」があるからだと説明しています。悪い思いも罪であることは既に学んできました。ではこの思いは、どこから発しているのでしょうか。それは、私たちが死の恐怖から見えるものにしがみついたこと(悪い倉)から発しています。聖書は、私たちがしがみつく見えるものは、大きく分けて二つあると教えています。物を手に入れて安心を手にすること(富の惑わし)と、人からほめられること(世の心遣い)で平安を維持しようとすることです。私たちは様々な物にしがみついています。


罪は、木にたとえることが出来ます。私たちは、罪の実を見て、問題にしますが、実がなるということは、木があるということです。イエス様は、実を見て木を判断できると言われました。罪という実がなったということは、罪をならす木があるということです。木自体がなければ、実はなりません。神が問題にされるのは、この木の根の部分です。ここに私たちを苦しめているすべての問題があると言われました。


名声という悪い倉にしがみつく人は、人からよく思われるために、嘘をつくかもしれません。やがて、嘘を隠し通すために、不正を犯すかも知れません。学歴にしがみついた人は、自分より成績の良い人がいれば、嫉妬し、憎み、やがて殺人を犯すかも知れません。これが罪をならす木です。


『しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:10)


えこひいきは、日常的に行われる罪の一つです。どんな小さなことでも、一度でもえこひいきをした事があるなら、それは、あなたの心に罪をならす木がある証拠です。罪をならす木があれば、どんな罪でも犯すことが出来ます。たまたま罪を犯す機会が少ない環境で育った人もいるかも知れませんが、環境が変われば、人はいつ、どんな罪を犯してしまうか分かりません。ですから、実の数で人の善悪を計る事は、愚かなことです。


『律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:11)


旧約聖書のヨブ記を通して、このことを学んでみましょう。


『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。』(旧約聖書 ヨブ記 1:1〜3)


ヨブも、心の中に罪の木がありましたが、この地上で、最も罪の実の数が少ない人でした。理想のクリスチャンとして描かれています。ヨブには不足する物がなく、それは神の祝福だと、皆の憧れの的の存在でした。しかし、サタンはその事に目を付けます。ヨブが罪を犯さないのは、そういう恵まれた環境にいるからだと言います。環境さえ変えれば、神が最も悲しまれる罪である、神に対してつぶやき、呪う罪を犯すだろう、だから、ヨブに試練を与えさせてくれ、と言います。神はサタンの言うことを許可されます。しかし、彼に手を下してはいけないと言います。


ヨブは子どもを失い、財産のすべてを失いましたが、それでも彼はつぶやきませんでした。

『このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」』(旧約聖書 ヨブ記 1:20〜22)


サタンは、それでもヨブが神を呪わないのは、ヨブ自身に手を下していないからだと言い、今度は彼に手を下させてくれと、神に申し出ます。神は、それに対し、彼のいのちに触れてはいけないという条件を付け、サタンを許可します。ヨブはこれによって、全身に悪性の腫物が出来てしまいます。


『すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。』(旧約聖書 ヨブ記 2:9,10)


しかし、一週間後、遂に、あまりの痛みに、ヨブは自分の生まれた日を呪います。間接的に、神に文句を言うのです。


ヨブは、見た目は最も罪の実が少なかった人物ですが、追い込まれたとき、彼は罪を犯しました。状況によって、実の数は変わるのです。実の数は問題ではありません。状況を変えれば、誰でも最も神を悲しませる罪を犯すことさえ出来てしまいます。このことから私たちは二つの事を学ぶ事が出来ます。これをどこまで理解することが出来るかで、私たちは自由になります。


1. 裁く資格がないということを学ぶ

人はみな罪の木をみな持っています。あの人は悪い人間で自分は立派な人間だ、というような話を私たちはしていないでしょうか。人をさばき、自分を裁くことをしょっちゅうするのです。しかし、ヨブのことから分かるように、どんなに立派だと誇ったところで、私たちは追い込まれれば、罪を犯すのです。人はみな誰でも同じ罪の木を持っていて、誰も互いにさばく資格を持っていません。さばいてはいけません、というと、自分に裁く資格があるのに、我慢して裁かないような印象を持ちます。赦しなさい、と言うと、赦さなくてもいいのだけど、我慢して赦してあげよう、とい気持ちになります。それは、この罪の木が自分の心にあることを分かっていない証拠です。私たちは、そもそも、人をさばいたり赦す資格がないのです。


『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1〜3)



2.神の助けが必要だということに気づく。

心の中に、罪の木があるということの重大さに気づき、神が必要だと分かれば幸いです。聖書は、何としても私たちを罪人だと示し続けます。それに気づかせることによって、罪から解放したいからです。しかし、私たちは、いや、私はそれほど重症ではない、と拒み続けてしまいます。神は、私たちに、あなたは罪という病気に冒された病人だ、と言っておられます。そのことを素直に認め、医者である神に憐れみを乞うことが、神が私たちに望んでおられることです。


『イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 9:12,13)


主は私たちを招くために来て下さったのに、なぜ私たちは、自分の罪を認めたくないのでしょう。二つの理由を見ていきましょう。


1.罪を認めると罰が与えられるのではないかと思うから。

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)

神はもうすでに、私たちに「死」という罪の罰を与えられました。神は、その罰から救うために私たちの為にこの世に来られたのです。これから新しく何か神から罰を受けることはあり得ません。神が用意した罰をもう私たちは受けているのです。神はそこから私たちを救うことを考えておられます。


2.人に嫌われるのではないかと思うから。

神の言葉に従って生きていこうとすると、確かに周りから嫌われます。「あなたが神についていくなら、家族も、周りもあなたを非難する」と聖書は言っています(マタイ10:34〜39)。しかし、私たちを苦しめているのは、人から良く思われたいという思いです。その思いに従って、人からもよく思われて、神にも従う、という生き方は出来ないのです。人からよく思われる生き方は、神と全く反対の方向に進んでしまいます。私たちは、人から嫌われることを覚悟する必要があります。あなたは、強くもないのに、好かれるために、強いふりをして生きますか?罪人なのに、善人のふりをして生きますか?神は、そういう生き方から私たちを救いだして下さいます。

悪い倉にしがみつく手を放し、神にすがり直す、そうすることで、私たちの心には平安が訪れます。