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2010年5月30日 礼拝メッセージ
『終わりの時』
(新約聖書 マタイの福音書 24章)

『ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。』(新約聖書 マタイの福音書 24:36)


24章で、弟子たちは終わりの時のことをイエス様に質問します。イエス様はそれに対し、終わりの時の前兆を語られますが、その後で上のように語られました。ここで、「知りません」とありますが、原語では「関心がない」という意味で書かれています。つまり、神は終わりの時に関して、私たちに関心を持ってほしくない、関心を持つ必要がないということです。それなのに、人はそのことに興味を持ち、これまで何度も独自の解釈をして、失敗してきました。それは聖書を正しい姿勢で読んでいないからです。神は人が深く知る必要がなく、知る意味もないので、あえていつだかわからないように、ただ終わりの時があるということだけをわかるように書いているのです。私たちが終わりの時に興味を持つ必要がない理由をさらに詳しく見ていきましょう。


1.死は勝利に飲まれている

私たちは死を恐れる必要はありません。なぜなら、私たちはすでに救われているからです。救われた時点で、広い意味では終末を迎えたとも言えます。いつ死んでも、神のもとに召されるのですから、今さら心配する必要はありません。


2.私たちは日々新たにされている

私たちの体は確かに老いていきます。しかし、私たちに与えられた新しいいのちは日々、完成に向かっています。

『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:16〜18)

私たちの体は滅びます。それが必要だからです。なぜなら、私たちは新しいいのちを着て、生きるようになるからです。見えるものに心を奪われてはなりません。


3.今、どう生きるかが大切

『終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:52〜58)



この聖句の最後にあるように、神が私たちに望んでおられるのは、何も心配せずに主のわざに励むことです。

マタイ24章でも、イエス様は終わりがいつ来てもいいように、今、忠実に生きていきなさいということを強調されました。つまり、将来を心配するのではなく、今をどう生きるか、今、神と共に生きているということが大切なのです。今、神と共に歩んでいるなら、何も心配する必要はありません。

今をどう生きるかということですが、賢いしもべとして、与えられた賜物を積極的に生かしていくことも大切です。


イエス様が死に勝利してくださったことで、私たちも見えるところの死に勝利することができました。イエス様を信じる者は、肉体が死んでも、新しいいのちを着て生きるのです。ですから、何も心配することなく、平安をもって、主と顔と顔を合わせるときに悔いることのないよう、与えられた賜物を用いて生きていきましょう。