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2009年12月13日 礼拝メッセージ
『私たちは神の作品』
(新約聖書 マタイの福音書 13章24〜40節)

私たちの心の食事を必要としています。その方法は、人から愛されることを通して得ることと、神から与えられる方法があります。人からのものは一時の満足で終わり、すぐに空腹になります。私たちの心には、人からよく思われたいという思いがないでしょうか。それは、人からの食事で満足を得ようとしているためです。しかし、神からの食事は実を結びます。今回の箇所からそのことを詳しく学んでいきましょう。


『イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」』(新約聖書 マタイ13章31〜32節)


このたとえ話によってイエス様が言おうとしているのは、信仰の種は成長して実を結ぶと言うことです。神は私たちの心に信仰の種をまいてくださいました。最初、それは本当に小さく、吹けば飛ぶようなものです。信仰の成長は、次のような過程で進みます。


1.律法から解放する(ねばならないという考え方からの解放)

人からほめられるためには常にこうでなければならないという条件に縛られます。条件がクリアできなければ自分はダメだという思いに縛られます。しかし、神からいただいたものに目を留め、実を結ばせる方向へ進む時、もはや人からの食事は必要なくなり、人からほめられることを求めるのをやめ、律法から解放されるのです。


2.報酬を求める生き方からの解放

人が何かをする時、必ず見返りを期待しています。期待して何かをして、期待通りのものを得られる時、人間関係は平和を保ちます。仕事をするのも給料が支払われるからです。夫婦の間でも相手から互いに期待した見返りを受けられる時に愛し合っていると思うのです。愛の反対は無関心です。子どもは親からほしい見返りを受けられないと、親が怒ることをして、怒られるようにします。何もないよりもまずい食事の方がまだましだからです。

また、奉仕するのも人からほめられるためにすると、無理をしてがんばったり、他の人をさばくことになります。人からの報いを受ければ、神からの報いは受けられません。そのように、報酬を求める生き方は、怒りや苦い感情を生み出します。しかし、神からの食事で満足すれば、人からの報酬を必要としません。


3.自分はダメではないという認識

ねばならないという考え、報酬を求める考えといった心がつらくなる要因をつくっているのは、自分がダメだという認識です。なぜよく思われたいのか、それは自分がダメだと思っているからです。自分を強く見せようとする人は弱いからです。

人の行動は心の裏返しです。自分がダメだと思うからよく見せようとするのです。しかし、自分がダメだと思わなければ、人からどう思われるかを気にすることがなくなります。


私たちは自分の価値を正しく認識するために、次の3つのことを確認しましょう。


@私たちはダイヤモンドに泥がついたようなもの

泥がついてもダイヤモンドの価値は変わりません。泥は洗えば落ちるのですから。泥がついたからと言って、ダイヤモンドでなくなることはありません。しかし、私たちは、自分がただの石炭で、ダイヤモンドにならなくてはいけないと勘違いしています。

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:18)

私たちは、神によって最高の者としてつくられました。すでに完成された者なのです。それなのに私たちは着るもの、持つもの、車、家、といった外側のものに価値を置き換えようとしています。それは神から見たら愚かなことです。私たちの価値は比べものにならない最高のものなのに、その程度のものだといっているようなものだからです。


A私たちは神の作品

誰の心にも、イエス様のような愛が眠っています。それが泥で閉ざされているのです。それが時々垣間見られるような出来事が起こります。とっさに人を助けるために命を落とす人がいるといったこともそうです。

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:10)


良い行いは、自分でがんばってするのではありません。泥を取り除くと、自然に神の力でできるようになります。悪いことをするのは、嘘の(御言葉と食い違う)情報を心の中に入れるせいです。


B泥は外側のこと。神がとってくださる。

『ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:8)

私たちは元々すばらしいものとして造られましたが、泥で汚れているのです。イエス様は、私たちの泥をとる、すなわち、罪をゆるすために来られました。罪を悔い改め、ゆるされることで、私たちは泥が取り除かれて、本来の自分の姿がよく見えるようになります。


『シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:9,10)

イエス様は私たちが元々きよい者であり、泥だけとればよいと言っているのです。私たちが自分の本当の姿に気づくよう、神様は望んでおられます。


『今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:12)

私たちはやがて、はっきりと自分がダイヤモンドであることを知るようになります。そこへ至るように、イエス様に泥をとってもらい続けるだけです。イエス様は完全に取り除いてくださいます。泥がとれるほどに、私たちは自然に変えられます。努力して良いことをしなくても、人を愛したくなり、奉仕したくなります。神はうわべではなく心をご覧になります。泥はうわべのことです。ダイヤモンドの私たちを見てくださるのです。泥を見て落ち込むのではなく、イエス様に差し出して、洗っていただきましょう。