『マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。…』(新約聖書 ルカによる福音書
1:46〜50)
『さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言った。彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。」と言った。そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書いたので、人々はみな驚いた。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。』(新約聖書 ルカによる福音書 1:57〜64)
マリヤは御使いの言葉を聞いた時、「どうしてそんなことが…」と疑いました。ザカリヤもまた、御使いの言葉に対し、年寄りの自分たちに子供が与えられるだろうかとつぶやきました。しかし後には、マリヤはその言葉がまだ実現していないのに信じ切って、上記のように主を賛美しました。主の言葉を疑って口がきけなくなっていたザカリヤも、子供が生まれた時、長男は父親の名を付けるという当時の習慣にもかかわらず、主の言葉に従って名前を「ヨハネ」と名付けると表明した時、口がきけるようになり、主を賛美しました。「ヨハネ」と名付けることは、本当に主を信じているのか、神様からザカリヤへの信仰のテストだったと言えます。
マリヤもザカリヤも最初は神様の言葉を疑いましたが、後に信じ切るようになりました。このことから信仰には段階があるということが分かります。誰でも初めて福音を聞いた時、すぐに信じると言うより、本当だろうか?と疑う思いがあって、そこから次第に信じるようになり、クリスチャンとなった今は、誰に何と言われようと信じ切っているのではないでしょうか。それは、聞いた御言葉が「ロゴス」から「レイマ」に変わったからです。「ロゴス」も「レイマ」も神の言葉を意味する原語ですが、聖書の中では場合に応じて使い分けられています。
『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:17)
例えば、この聖句の中の「みことば」は「レイマ」が使われています。御言葉を最初は「ロゴス」として聞き、それを信じ切るようになるとその人の中で「レイマ」となるのです。ちょうど御言葉は種のようなもので、私たちの心にまかれ、それを育てていくと「レイマ」となり、育てることをしなければ「ロゴス」のまま成長しません。私たちが普段御言葉を聞く時、毎週語られるメッセージを聞く時、どのように受け止めているでしょうか。それをレイマとなるまで、つまり信じ切るところまで育てているでしょうか。
御言葉が「ロゴス」から「レイマ」に変わるということについて、さらに見ていきましょう。最初は「ロゴス」から始まります。その時は疑いがあってもよいのです。しかし、そこで御言葉を育てることをあきらめてしまえば、種が枯れてしまいます。しかし、あきらめずに種を育て続けるなら、その御言葉は必ずその人の中で「レイマ」になります。
旧約聖書の中にヨナという預言者が登場します。彼は神の命令に従わず、逃げる中で、魚の腹の中に飲み込まれました。しかし注目すべきは、その苦しい状況の中で捧げた彼の祈りです。祈りの中で彼は、すべて過去形で祈っています。神が自分の祈りを聞いてくださり、助け出してくださったと、信仰を告白し、感謝しています。その祈りを聞いて神様は、彼を助け出されました。冒頭のマリヤの祈りでも、まだ彼女は約束のものを見ていないのに、すでに起こったかのように感謝し、賛美しています。これが信じ切るということです。私たちはここから学ぶべきではないでしょうか。
中には育つのに時間がかかる種(御言葉)もあります。しかし、そこであきらめてしまったら、実はなりません。時間がかかっても、必ず「レイマ」という実はなるのです。ですから、あきらめずにレイマになるまで御言葉を育てましょう。 |