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2016年8月14日
本当の戦い
(新約聖書 マタイの福音書 4:4)
生きるために必要なもの

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)

   イエス様は、私達が生きるためには、神の言葉が必要だと言われました。それは、人には魂があり、その魂を生かすのは神の言葉だからです。ヨハネの福音書に、「言葉は神であった」と記されています。御言葉は、私達を永遠のいのちに導きます。人間は、人の言葉だけでは生きられないのです。
   ですから、私達が生きるための戦いとは、神の言葉を食べる戦いです。神の言葉を食べなければ、元気が出ず、つらくなって、希望が感じられません。神の言葉は、私達に愛をもたらし、生きる力を与えます。
   神の言葉は、「愛せよ」という一語に集約されます。

『律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:14)

   ここでの「律法」は、聖書を指します。イエス様の時代には、まだ「聖書」という言葉はなく、「律法」あるいは「預言者の書」などと呼ばれていました。
   聖書が教える神の戒めは、神を愛し、人を愛することに集約されます。ですから、神の言葉を食べるとは、具体的には愛することです。つまり、私達は、愛せないことと戦わなくてはなりません。
   「愛せない」「許せない」「相手をさばくこと」、これらの愛に反することが、敵の策略なのです。

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10〜11)

   人を赦せないと、神の言葉が食べられなくなってしまいます。私達が、この策略に陥ることのないように、イエス様は十字架にかかってくださったのです。

『ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15〜16)

   「赦せない」という人を裁く行為は、その人に敵意を抱くということです。人を裁く基準となるものが律法です。律法という言葉には、「神の規定=聖書」という意味のほかに、「ねばならない」と私達の心を拘束する規定という意味があります。私達は自分の中にある規定に従って人を裁き、赦せないという思いを持ってしまいます。
   イエス・キリストは、私達が人に対して敵意を抱いて裁くという罪を犯さないように、十字架にかかり、敵意を滅ぼしてくださいました。裁くという行為は、愛せよという神の言葉を食べられなくさせてしまいます。だから、人を裁かないように、戦わなければならないのです。

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』(新約聖書 マタイの福音書 18:21〜22)

   イエス様は、裁かないで何度でも赦し続けるように教えました。それは、あなたが神の言葉を食べられなくなり、自分で自分を辛くさせてしまうからです。
   聖書の言葉をどんなに理解しようとも、どんなに信仰があろうとも、どんな良い行いをしようとも、人を愛せなければ、何の意味もありません。愛するとは、人を裁かないことです。人を裁かないで赦すことが、私達がしなければならない本当の戦いです。
   イエス・キリストの十字架を思い出してください。パリサイ人達は、神の言葉である律法に反すると言って、イエス様を裁きました。「神はおひとりであるにも関わらず、あなたは自分を神とした」、これがイエス様の罪状です。彼らは、徹底的に律法で裁き、敵意を抱いて怒り、最終的に十字架で殺したのです。
   私達はどうでしょうか。同じように律法で人を裁いていないでしょうか。
   「なぜだ?」と言っては人に対して腹を立てたり、「理解できない」「許せない」と言って人を裁いてはいないでしょうか。もししているなら、私達もパリサイ人と同じように律法で人を裁き、「愛せよ」という神の言葉を十字架にかけているのです。
   神の言葉は神ご自身を指します。つまり、私達自身がキリストを十字架にかけているのです。私達はパリサイ人を見て、「なぜ、このようなことをするのか」と思うかもしれませんが、あの姿こそ、私達の日常の姿なのです。自分も彼らと同じことをしていることに気づくなら幸いです。

裁いてはいけない

    私達は人を裁くことがどれほど恐ろしいことか気づかず、簡単にこの罠に陥ってしまうため、聖書には裁くことについて、様々な言葉で教えています。

『ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:1)

   どんな理由があろうとも、もし人を裁くなら、その人は敵の策略に陥ってしまったのです。そして、そのことで、自分を罪に定めてしまいました。なぜなら、裁くことは、愛せよという神の教えに逆らった行為だからです。あなたは人を罪に定めることで裁くという罪を犯した、あなたには弁解の余地はないと聖書は教えています。

『そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 6:7)

   この手紙が書かれた当時のコリント教会は、分裂の危機に直面していました。互いに裁き合う教会員同士に対してパウロは、だまされているならそのほうがいい、そのことで相手を裁くことのほうが敗北だと語っています。人を愛せなくなり、憎むことのほうが敗北なのです。
   人は神の言葉を食べなければ生きていけません。神の言葉を食べるとは、人を愛することです。ですから、敵はあなたが人を愛せないように、裁かせようと働きかけます。敵の攻撃は、あなたが人に敵意を抱くようにさせるものです。ですから、私達はそれと戦わなければならないのです。もしあなたが誰かを裁いてしまったら、その時点であなたは負けです。そんなことをするくらいなら、むしろだまされていたほうがいいと、聖書は教えています。

   イエス様は、偽証で訴えられたにも関わらず、一切の申し開きをしませんでした。「あなたは神か」と聞かれた時に「はい」と答えただけで、一言も口も開かず、どんなに虐げられてもすべてを甘んじて受けたのです。人々はイエス様を罵倒し、つばきをかけ、殴り、着物を剥ぎ取り、十字架にかけました。それでもイエス様は、口を開きませんでした。
   それは、どんな言葉であっても、それは人を裁くことになり、自らが罪を犯すことになると知っていたからです。
   どんな理由があろうとも、私達は、裁いたり訴えたりした時点で、敵に一本取られたことになるのです。
   私達は人を裁く時、相手がどんなにひどいことをしたか、いろいろな理由を並べるものです。しかし、その時、あなたは神の言葉が食べられなくなるのです。そして、敵の罠に落ちたという結果になります。ですから聖書は、どんな理由があろうとも裁いてはいけないと教えているのです。それなのに、私達は裁くことをやめません。


なぜ裁いてはいけないのか

   人を裁いてはいけない理由は、自分自身が神の言葉を食べられなくなるというばかりではなく、もう一つ大切な理由があります。このことを理解するためには、人の罪は病気だということを知る必要があります。
   イエス様は、ご自分を十字架につけて殺そうとする人々について、「彼らは自分で何をしているのかわからないでやっている」と語っています。私達が人を裁いたり、悪いことをしてしまうのは、自分の意志というよりも強いられてやらされているということなのです。
   それは、本来人の中にはなかった死が人に入り込んだために。人はその恐怖から逃れようとして、見えるものに安心安全を求めるようになってしまったということです。私達は、自分の中に住み着いた死の恐怖から必死に逃れようとして、人から良く思われ、富を手にしようとして生きています。
   人から良く思われたいと願うために、人と自分を比べるので、そこから、嫉妬や怒りが生じます。人の期待に応えようとして、それが律法になり、その律法で人を裁くようになります。つまり、私達が人を裁く動機は、自分が愛され、安心を手にしたいという欲求によるものです。また、富を巡って争うのも、安心を手に入れるためです。それらは、すべて死の恐怖が根源にあります。私達は皆、死の恐怖という病原体に感染した病人として生きているのです。

『イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 9:12〜13)

   イエス様は、自分と人の関係を、医者と病人に置き換えました。医者は、なぜ良くならないのか病人を責めるのではなく、なんとかいやそうと手を尽くします。医者が病人を助けるのと同様、私は罪人を裁くためではなく、救うために来たと、イエス様は言われます。
   私達が、罪は病気だということが本当にわかるようになれば、裁く思いが消え失せます。「本人はわかっていないんだ。あわれみを持とう。早く良くなってほしい。」罪人に対して、このような思いを抱くものとなりましょう。なぜなら、神は、私達を罪を犯すダメな人間ではなく、良きものとして造られたからです。

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』(旧約聖書 創世記 1:31)

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』(旧約聖書 創世記 1:26〜27)

   神は良き方であり、愛の方ですから、神に似せて造られた私達も、愛を持って生きる良きものとして造られています。ところが、今、私達は、死の恐怖によって、その良きものの生き方ができなくなってしまいました。
   私達が人を憎んだり、裁いたり、嫉妬したりすると、つらさを感じるのは、良きものとして造られたからです。もし神に似せて造られたのでなければ、悪いことをしても何も感じないでしょう。
   ですから、私達は決して自ら望んで人を裁いているわけではありません。パウロは、私達の中に罪が住み、それが私のしたくないことをさせていると言っています。その罪の正体は、死のとげです。人の中に死が入り込んだ結果です。ですから、神は私達を憐れんでくださるのです。なんとしても助けたいと願って、つらさに陥ることのないように「裁くな」と語り続けておられます。神が助けようとしている人を、どうして私達が裁くことができるでしょうか。

柔和な心で訓戒しなさい

   では、相手を裁いてはいけないからといって、私達は、悪いことをした人を注意しなくても良いのでしょうか。決してそんなことはありません。ただし、相手を裁く心ではなく、病気に対して憐れむ心で行わなければなりません。

『反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせ、一時は悪魔に捕えられて思うままになっていた人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:25〜26)

『父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)』(新約聖書 マルコの福音書 16:12〜14)


   注意しても良いのですが、そのことで、あなたが怒ってはいけません。相手に対して怒りを感じるのは、裁いているということです。そうではなく、神は、憐れむ心で間違いを是正してあげなさいと教えています。神がその人をいやしてくださるかもしれないからです。
   もし、兄弟姉妹が過ちを犯したら、神に立ち返り、神にいやしてもらうように勧めましょう。これは、裁いているのとは違います。「裁いてはいけない」とは、「怒ってはいけない」ということです。
   人が間違いや罪を犯したら、それをいやすことができるのは神しかいないのですから、互いに憐れみを持って、神に助けを乞うように優しく勧めましょう。そして、自らも罪を犯したら、神に罪を言い表していやしてもらえば良いのです。これが正しい対応です。
   もし、怒りやつらさを感じたら、それはあなたが裁いているサインです。このことに気がついて、裁くのはやめましょう。

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:34)

   人を裁く者に対して聖書は、イエス様は、私達の罪をとりなすために十字架にかかり、私達をいやそうとしておられるのに、なぜあなたは反対のことをするのかと問いかけます。「私はこの人をとりなそうとしているのだから、邪魔をしてはいけない」とイエス様は言われるのです。裁くということは、十字架に対して敵意を抱き、邪魔をすることです。そんな愚かなことはやめましょう。イエス様は、あなたの罪をいやそうとしておられるし、他の人のことも助けようとしておられます。イエス様が、その人を責任もって治療しようとしているですから、余計なことを言ってはいけません。
   私が怒るのは当然のことだと、あなたに人を裁かせようとする敵の罠に陥らないようにしましょう。もし、裁いてしまったら、すぐに負けを認めて、神の前に罪を言い表し、いやしてもらえばよいのです。人の罪を見たら、その人のために祈りましょう。神はその人をとりなしておられるのですから。
   そうすることで、私達は神の言葉が食べられるようになり、平安が訪れます。もし、平安がないなら、あなたは誰かを裁いていることに気づき、それを素直に認めましょう。どんな理由があろうとも、裁いたら弁解の余地はありません。敵の罠に陥らないように、互いに愛し合いましょう。