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2016年7月24日
十字架の死の意味
(新約聖書 マルコの福音書 15:23〜)
   一般的に、神というと、悪いことをしたら罰を下す怖い存在だと考え、神に愛されるには何か特別な者にならなければならないと思いがちです。しかし、決してそんなことはありません。神に対する間違ったイメージを捨て、神とはどのような方なのか正しく知りましょう。

『そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。 』(新約聖書 マルコの福音書 15:23〜37)


十字架の死について

   没薬とは、今日でいう麻酔薬のようなものです。十字架による非常な苦痛を少しでも和らげるためのものですが、イエス様がそれを受け取らなかったということは、痛みをそのまま受け取るという意思を表しておられます。十字架とは、大きな木の杭に手足を釘で打ち付け、裂けて落ちることのないように紐でしばり、苦しみの中で殺していく実にむごい刑罰です。長い人は、十字架上で数日も生きたと記録されています。
   イエス様は、朝の9時に十字架につけられました。人々はイエス様の着物を剥ぎ取り、あざけり、ののしり、イエス様は、苦しみの中で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫び、午後3時に大声を上げて息を引き取られました。
   なぜ十字架が必要だったのでしょうか。イエス様は、逃げようと思えばできたのに、弁解もしないで、没薬も拒否して、なぜ十字架の死を選択したのでしょうか。

1.私達の罪を背負った

『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:21)

   第一に、イエス様が十字架で死なれたのは、私達の代わりに罪とされたからです。これは、私達が受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったと理解することもできますが、さらに深い意味もあります。
   その意味を知るには、まず罪とは何かを理解しなければなりません。私達が通常罪だと考えるのは、悪い行いや不道徳のことですが、聖書は、そうした罪の行為が起きるのは、心の中の欲が原因だと教えています。欲がはらんで悪い考えを持つようになり、悪い行いをするようになったのです。ですから、聖書は、罪とは、悪い行いばかりではなく、そもそもそのような思いを持つことであると教えています。すなわち神の思いに逆らう思いを持つことが罪なのです。人は神に似せて作られたにおかかわらず、なぜ御心に反するような欲を持つのでしょうか。
   それは、私達の中に死が入り込んだからです。聖書が教える死とは、肉体の死ではなく、神とのつながりを失うことです。肉体の死は、神との結びつきを失った結果です。永遠なる神とのつながりを失った結果、人は永遠に生きられなくなり、体は朽ちるものとなりました。そして、神との結びつきを失うことによって、人は、神と異なる思いを持つようになり、罪を犯すようになったのです。
   神との結びつきを失うということは、神が見えなくなり、神の愛が見えなくなるということです。それは、私達にとてつもない不安と恐怖を抱かせます。人は、本来神の愛の中で生きるように造られたので、愛されている自分が見えなくなると、自分が何者だかわからない不安に駆られるのです。この不安によって、人は、必死になって周りの人から愛されようとします。その結果、人は互いに比較するようになり、妬み、怒り、敵意が生まれるようになりました。これが私達に悪い思いを抱かせ、悪い行いに向かわせます。
   また、肉体が死ぬものとなってしまった恐怖によって、少しでも長生きしたい、安全を確保して生きていきたいという願いが生まれました。こうして、安心安全を確保するために富を得たいという願いが生じ、人は富を争うようになりました。
   このように、私達の罪の根底には、必ず死の恐怖があります。つまり、死が私達を支配し、私達は死の恐怖の奴隷となった結果、罪に苦しむ者となったのです。つまり、罪とは死のとげなのです。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   死のとげが私達の罪となり、その罪の力が律法となりました。律法とは、人から良く思われるための規定です。私達は、「ねばならない」「こうあるべき」という心を支配する規定をたくさん持っており、その理由は、それをクリアすることで、人から良く思われて、安心を確保することができるからです。こうして私達は律法に仕える者になったと聖書は言っています。
   罪とは死です。イエス様ご自身が神との結びつきを失うという死を背負うことによって、私達と同じ罪人となり、私達を死から贖い出してくださったと聖書は教えています。

2.私達をいやすため

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   ただ罪を背負っただけでは解決になりません。イエス様の十字架の死は、私達をいやすためです。私達は、神に愛されている自分が見えないために、人から愛されようとして、嫉妬や怒りが生じて、悪い行いに至ります。ですから、その罪から解放されるには、あなたが神に愛されていると知るしかないのです。
   罪の原因が死であるということは、死も罪も、本来人が持っていたものではないので、罪は後から入り込んだ病気と言えます。死は罪を発病させる病原体です。イエス様は、罪を背負って十字架でそれを滅ぼし、いやしてくださったのです。
   私達を苦しめている罪の根本は、自分が神に愛されていることがわからないことにあります。だからイエス様は、十字架の死を通して、本気であなたを愛していると示したのです。これが、十字架の第2の意味になります。
   イエス様は十字架にかかる前に次のように言われました。

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:13)

   イエス様は、私達のことを友と呼び、自分は友のためにいのちを捨てると言われたのです。神は私達を奴隷とは思っていません。友です。イエス様は、友のために、これより大きな愛はない愛を示すために十字架にかかったのです。
   この世の中でも、人が人を助けるために自らの命を犠牲にするという話はよく聞きます。しかし、これは、私達を造られた神が、私達を救うために十字架にかかり、ご自分のいのちを犠牲にすると言われているのです。だから、これ以上大きな愛はないと言われているのです。人は神ではないから、そんな愛はもっていません。このもっとも大きな愛を、聖書はまったき愛と呼びます。このまったき愛を示すために、私は十字架で死ぬのだと主は言われるのです。

3.悪魔を滅ぼすため

   私達を苦しめる死は、悪魔が持ち込んだものです。悪魔がアダムとエバをそそのかして、人の中に死を持ち込みました。だから聖書は、悪魔のことを死の力を持つ者と呼んでいます。ですから、私達を罪からあがない出すためには、悪魔を滅ぼす必要がありました。悪魔を滅ぼす武器は、死の恐怖を滅ぼす武器でもあります。それは、全き愛しかないと聖書は教えています。神が友のためにいのちを捨てるという全き愛を実行することによって、悪魔は滅ぼされるのです。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 へブル人への手紙 2:14〜15)

十字架のメッセージ

   イエス様の十字架の死は、私達を罪から贖い出すためのものです。私達の罪を背負い、私達を苦しめている死の恐怖、すなわち、神に愛されている自分が見えないという恐怖を打ちこわし、それを私達に持ち込んだ張本人である悪魔を滅ぼすためのものでした。
   これが十字架の死の意味です。だから、イエス様は最後に 『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)』と叫ばれたのです。これは、父なる神、御霊なる神、神との関係が完全に断たれたことを意味します。自ら神との関係を断ち切る死を選択し、まったき愛を持ってよみに下り、悪魔を滅ぼし、三日後によみがえったのです。
   つまり、イエスの十字架は私達を本気で愛していることのあかしであり、私達を苦しめている罪と死を神が滅ぼし、わたしを信じるなら生きるようになるのだということを、私達に伝えているメッセージです。
   イエス・キリストはそのようなお方です。悪いことをしたら罰し、良いことをしたらあなたを助けて救うという方ではないのです。あなたを苦しめているその罪は、死がもたらしたものであることを神は知っておられました。そして、その死を滅ぼすことができるのはご自分しかおられないこともご存知でした。だから神は、人の罪を見て裁くことをしないのです。
   「あなたの罪は私が赦している。私が背負うから、わたしのところに来なさい。私が休ませてあげる。」・・・これがイエス様の十字架が意味するところのメッセージです。
   イエス様は十字架にかかる前、次のように説明なさっています。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(新約聖書 マタイの福音書 11:28)

   これがイエス様の十字架の目的です。私達の重荷を下ろさせるため。あなたがつらいのは、死の恐怖が原因です。神の愛が見えないことと、やがて訪れる肉体の死が、あなたを苦しめています。だから私のところに来なさい。私が休ませてあげると言って十字架にかかりました。

『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』(新約聖書 マタイの福音書 11:29〜30)

   イエス様は、「私が休ませてあげるから、わたしのくびきを負いなさい」と言われました。「わたしのくびき」とは、十字架のことです。イエス様の十字架は、私達には負いやすく、軽いと言われます。それは、十字架を信じることで魂に安らぎが来るからです。
   イエス様の呼びかけに答え、十字架のもとに来るならば、理屈ではなく、神に愛されていることを知ることができます。そのことがその人の人生を変え、キリストに導かれて神の愛を悟ることができるようになるのです。
   十字架はこの世で最も残酷でむごたらしい死刑の方法です。しかし、イエス・キリストの愛が、十字架の意味を変えてしまいました。そこに行けば、心の重荷は取りのぞかれ、いやされ、幸せになれることを知って、イエス様の十字架を誇りとするようになったのです。今多くの人が十字架をアクセサリーとしていますが、そこには非常に深い愛が込められているのです。