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2014年月12月28日
上にあるものを求めなさい
(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:1〜)
『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:1)

   「よみがえらされた」とは、イエス・キリストを信じて救われることです。私たちは、現実には、まだよみがえっていませんが、救いとは、人のいのちが、神のいのちとつなぎ合わせられることです。イエス・キリストという永遠のいのちに組み込まれたので、よみがえらされたと言えるのです。
   さらに、救われた者の次のステップは、「上にあるものを求める」、すなわち、神を信頼することです。神への信頼によって、一人一人に平安がもたらされ、安息に入ることができます。
   つまり、クリスチャンとして、神から第一に相続するものが、イエス・キリストを信じて得られる永遠のいのちであり、さらに、神を信頼する信仰を育てて、平安という安息を得るという第二の相続があります。神を信頼して、神を愛するようになること、これを、キリストの共同相続人となると言います。

『あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:2)

   天にあるもの、それは、祈りを聞いてくださった神の答えです。ヘブル人への手紙には、人々は祈りが聞かれたことを信じて、天を見て喜んでいたとあります。イエス・キリストを信じて救われた人には、信仰が与えられます。その信仰で神を信頼し、あなたの祈りはすでに聞かれて、天にはその答えが用意されていることを信じ、それが与えられたことを心に描いて喜びなさいと語られているのです。
   あなたは、自分の祈りが聞かれたという思いをしっかり持とうとしているでしょうか。見えるものばかり見て、失望していないでしょうか。祈りは聞かれていることを信じ、しっかりと天を見ましょう。

『あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:3〜11)

   「すでに死んでいる」とは、「死に対して死んでいる」ということです。つまり、私たちのいのちは、すでにキリストの中に移されているので、死は、私たちに対して何の力もないのです。ですから、私たちは、やがて訪れる死に対しておびえる必要はありません。生きていると思うから、この世に未練を感じて見えるものにしがみついてしまうのです。私のいのちはすでにキリストの中に移されている、と理解することが肝要です。
   多くのクリスチャンが、救われても、再び罪を犯したら救いが取り消されるのではないか、本当に天国に行けるかどうか、最後の時までわからないと誤解して、不安に思っています。しかし、イエス・キリストは、あなたはすでに死んでいて、神の御手の中に移されているから、二度と死に支配されることはないと教えています。
   聖書を理解するときには、 『これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにある』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:17)と聖書が語る通り、イエス・キリストの言葉を第一優先にしなければなりません。弟子の書いた手紙は、キリストの言葉を解説するものであり、旧約聖書はその土台です。聖書に書いてある言葉を、すべて同列に字義通り理解しようとすると誤解が生じます。イエス・キリストは、はっきり次のように言われました。

『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:28〜29)

   これを受けて、パウロは次のように語っています。

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:37〜39)

   つまり、救われた人は救いが取り消されることを心配する必要はまったくなく、安心して次を目指して生きれば良いのです。パウロが、あなたは死に対して死んだと言ったのは、あなたのいのちはキリストの中に移されたのだから、死はあなたに影響を与えることはもうできないということです。
   クリスチャンであっても、自分の罪深い姿を見ると、本当に救われるのかと不安になるかもしれませんが、それでは行いで救われることになってしまいます。しかし、救いはただ信仰によるものであり、行いではありません。むしろ、自分が罪深いと理解できるようになった人は幸いです。それは、神に助けを求めることができるからです。

『私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:4〜5)

   救われた者は死に対して死んでおり、あなたに対して、死は何の力もないのですから、死に支配されてはいけません。私たちは今まで死に支配され、死の恐怖の奴隷でした。そのため、見えるものを貪って生きてきたのです。これを聖書は罪と呼びます。ここで、パウロは、罪の具体的な内容を挙げ、こうした生き方をやめるように教えています。神が私たちにくださっている素晴らしい生き方を使わずに、まだ古い生き方にしがみついて恐れているクリスチャンたちに、そのような生き方はやめてしまいなさい、と教えているのです。

『このようなことのために、神の怒りが下るのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:6)

   神は、人間が犯した罪に対して怒ったりしません。罪に対して怒るのは人間の発想です。神は、罪に対して憐れみの思いを抱かれます。そうでなければ、私たちの代わりに十字架にかかることなどありません。
   ですから、「神の怒り」とは、私たちが感じる「つらさ」を表す表現です。悪いことをすると心につらさを感じる、あるいは悪い行いの結果、自分の身につらさが降りかかる、そのようなことを表しているのです。
   聖書の言葉を理解するときには、イエス・キリストの言葉が基本ですから、まず「神は罪に対して怒らない」という前提に立って理解しなければなりません。さらに、神は、それぞれの時代の人々の理解力に合わせて、表現を変えておられるということも重要です。それはちょうど、親が子どもを育てるときに、その年代に合わせて、痛みが伴うようなおしおきを加えたり、言葉によって注意を与えたり、やがて親の生き方を通して、大切なことを伝えようとするようなものです。その結果、旧約時代と新約時代では、表現が変わることがありますが、神は一貫して同じ愛を伝えておられるのです。
   例えば、「神は実にそのひとり子を賜ったほどに世を愛された」という御言葉も、正確には「三位一体の神のおひとりがこの世に来てくださるほどに世を愛された」となりますが、この表現では、神の愛を正しく理解することがむしろ困難です。ですから、三位の神が信頼し合い一つであることを一言でわかりやすく説明するために、ひとり子という表現が使われました。また、旧約時代の人々は、自然のメカニズムがわからないので、天変地異を神の怒りと理解し、神に心を向ける助けとしてきました。このように、聖書には、その時代の人々の理解に合わせて、わかりやすい表現が使われてきたという配慮があるのです。ですから、「神の怒りがくだる」とは、神に心を向けない生き方は、自分をつらくさせる行為だということです。

『あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:7〜8)

   私たちが捨てるべきものの第一が、怒りです。実は、怒りとは、死の恐怖から生まれるものなのです。つまり、神に心が向いていないために、自分が何者かわからず、見えるものに心を向け、それに自分の価値を託している時に生じるものだということです。
   人は、自分にとって価値があると思っているものを、奪われたり、否定されたりすると怒りを覚えます。それは、自分の価値を、そこに託していたからです。そのため、自分の価値が奪われた、否定されたと感じて、怒りが生まれるのです。自分の期待した言葉が返ってこない、権威が犯されたなどと感じて怒るのも、同じように、そこに自分の価値を投影していたからです。
   しかし、あなたのいのちは、キリストの中に移され、あなたの価値はキリスト自身です。そのことに気づかないで、未だに自分の価値を見えるものに重ねてしまうから、怒りが生じるのです。そのような生き方を捨て去り、心を神に向けて生きましょう。あなたは死に対して死に、あなたのいのちは、キリストの中に移されたのだから、しっかりとそこにとどまりましょう。

『互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:9〜10)
「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てる」とは、今までの生き方をやめることであり、「新しい人」とは、イエス・キリストのことです。
   キリストの中にいのちが移されると、あなた自身がその中で成長して新しくされていきます。見えるものに自分の価値を求めて安心しようとする生き方をやめ、キリストの中にある自分を見て平安を得る生き方に変えていくことが、罪と戦うということです。こうして真の知識に至るのです。
   見えるものは変わっていきます。どんな人でも、容貌、体力、自分を取り巻く状況は変わります。見えるものに心の安らぎを求めると、それらが変わるたびに、心の安らぎは失われます。見えるものにしがみついている限り、心は落ち込むばかりです。
   しかし、見えないものに目を留め、上にあるものを求め、キリストにある自分を見るならば、私たちは、日々新しくされ、幸せを得、成長していくことができます。見えるところによって平安を得るのではなく、天にある宝を思って神を信頼して生きましょう。
   人は何のために生きるのか、神は自分に何を望んでおられるのか、それはただ神を信頼することです。私たちが出会う問題は、神の罰や災いではなく、すべて神を信頼するための訓練として用いられ、それらを通して、神を信頼して失望しないで喜ぶことができるように、神は必ず脱出する道を用意しておられます。神を信頼して平安をつかみましょう。