ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年月11月23日
神の奥義
(新約聖書 コロサイ人への手紙 1章23節〜)
『これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:26〜29)

   奥義とはキリストであり、キリストをキリストの力によって宣べ伝えるとは、神の契約を理解することでわかるようになります。神と私たちの関係は、契約で成り立っているのです。

『さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。』(旧約聖書 創世記 9:9〜11)

   神の最初の契約は、大洪水の後、ノアに対して語られました。それは、もう二度と大洪水が地を滅ぼすようなことは起こさない、すなわち、神は人を滅ぼす罰を与えることはないという契約です。この契約は世々にわたる永遠の契約であり、人と神の関係の土台です。そして、虹をこの契約のしるしとすると言われました。

『わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき。虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。』(旧約聖書 創世記 9:12〜16)

   さらに、神はこの後、徐々にその永遠の契約の内容を明らかにしていかれます。

『わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。』(旧約聖書 創世記 17:6〜8)

   神は、アブラハムを通して、カナンの地を与えるという契約をなさいました。「カナンの地」には、安息をもたらすという霊的な意味があります。つまり、私たちを罪から贖い出し、安息に導くことが、神が永遠に立てた契約です。
   普通、契約とは、お互いになすべきことを取り交わして結ぶものです。ところが、ノアの契約もアブラハムの契約も、神は「契約を結ぶ」とは言わず、「契約を立てる」と言われました。それは、これらの契約が、人に対して要求する事項は何もなく、神が自らに課した一方的な契約だからです。アブラハムに対しては、契約の後、割礼を命じておられますが、これは契約の条件ではなく、契約を忘れないためのしるしです。

『あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。』(旧約聖書 創世記 17:11)

   神が、虹や割礼をしるしとしたのは、これらの契約が重要な意味を持つものだからです。神の契約内容は、人を罰することなく、罪から贖い、安息に導き入れるというものです。この契約に、見返りとして人がなすべき条件は、一切求められていません。どんな人間であろうとも愛する、これが神の愛です。神は一方的に憐れみ、一方的に愛する方です。
   なぜなら、アダムとエバ以降、人は、罪によって神との関係を失い、死んだ状態だからです。死んだ者は、良いことをすることも、神に応答することもできません。だから、神は人を一方的に救おうとし、人間はただそれを受け入れれば良い、これが神と人との関係です。

   さて、その後、神は、モーセに対して、十戒で、初めて人と契約を結びます。(出エジプト20章)人間に律法を与え、この律法を守れば祝福するが、守らなければ罰を与えるというものです。なぜ神はこのような契約を結んだのでしょうか。
   このことを正しく理解するためには、神の愛という枠組みの中で、捉えなければなりません。神は人を愛し、安息に導いておられます。ところが、ここにひとつの障害があります。それは、私たちの「意志」です。
   神は人をロボットではなく、神に似せて、人格のある者として造られました。そのため、人には自分で選択できるという自由意志があります。これによって、神の導きを、人間の側で拒否することもできるのです。神は、強制的に何かを選択させるようなことはなさいません。それは、人格を壊す行為だからです。神に似せられた人格は、それほど大切なものなのです。
   しかし、人間が神の導きを拒否してしまったら、神は契約を実行することができません。そこで神は、アブラハムに立てた永遠の契約を現実のものとするために、モーセと契約を結ばれたのです。
   人は、神の律法に違反した場合の刑罰が怖くて、必死で律法に従おうとします。ここでは、人間が必死になることが大切です。なぜなら、必死にならなければ、自分の力で神の律法を守ることができないことに気づかないからです。そこで、律法に違反した場合は厳罰が処せられます。こうして、人は、神にすがらなければ生きていけないことに気づきます。
   人間は本来、神にすがらなければ、そのまま永遠の死を迎えるだけです。それなのに、この状態に人は気づかず、いつまでも自分の力で生きていけると勘違いしています。神は、私たちが、生まれながらに死んでいるという、自分の置かれた現状に気づき、人が自らの意志で助けを求めるように、律法をお与えになったのです。神が律法を与えたのは、さばいて罰を与えるためではなく、私たちを自分の状態に気づかせ、キリストに導くためです。
   ところが、人は、神の意図を汲み取ることができず、罪を隠し、律法の行いで約束を手に入れようとし始めました。これが律法主義です。今日も、良いことをして神様にほめてもらい、ご褒美で天国に連れて行ってもらえると勘違いしているクリスチャンが大勢います。この律法主義について、聖書は、律法が悪いのではなく、私たちの中の罪がそうさせるのだと教えています。
   神は、罪が赦されるための手段として、旧約時代から、とりなし・いけにえという方法を教えてくださっています。とりなして、神に立ち返れば、罪は赦されると、旧約聖書の初めから、神はご自身の意図を示しておられます。律法とは、自分の罪に気づいて神に助けを請うためのものです。
   神は律法によって人に罪とは何かを教え、その罪がどんなに恐ろしい罰をもたらすかを教えましたが、罪を犯しても神に立ち返れば赦すと言われています。ごめんなさいと言えば赦されるのですから、こんなものは罰とは言えません。それなのに、人は、神は怖い方だとか、悪いことをしたらバチが当たるとか、勝手に思い込んで神の恵みに気づかないので、神に立ち返ることができないのです。こうして、神の意図を無視して、人をさばくため、自分の行いを誇るために律法を使い、見当違いなことをしているのです。

   その後、ダビデは次のように語りました。

『まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。』(旧約聖書 サムエル記第二 23:5)

   とこしえの契約とは、神は私たちを守り、すべてのことを備えて、死から贖い出して下さるという、アブラハムに語られた安息の契約です。
   この契約のために、神は、人が持つ本来の願いを育て上げて下さると言うのです。その願いとは、神が人を造った時に、人に与えた、神を愛し人を愛したいという願いです。人は本来、意地悪したり憎んだりすることを願ってはいません。本来の願いと異なる願いを抱き、異なる生き方をするから、辛くなります。ですから、人を愛する生き方をするならば、つらさは感じません。神の祝福とは、私たちの中の本来の願いを育てることです。

『彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。』(旧約聖書 エレミヤ書 31:33〜34)

   人々が律法を間違って運用していたため、神はエレミヤを通して、モーセの契約に新しい契約を加えられました。それは、神ご自身が、直接、人に信仰を与え、律法を使わなくても罪に気づかせるように助けるというものです。
   神は、人を安息に導き、本来の願いを育てて、罪に気づかせ、神が与える信仰によって赦し、その罪を二度と思い出さないと言われます。そして、その見返りを一切人に要求することはなく、一方的に神がすべてをしてくださるのです。
   私たちは自分の罪を見てダメな人間だと思ってしまうものですが、神は決してそのような接し方はなさらないのです。

『わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。』(旧約聖書 エゼキエル書 37:26〜28)

   神は、私たちの中に聖所を設けて永遠に住むと言われます。神があなたの中に永遠に住み、神を愛し人を愛する本来の心を育てることが、カナンであり、安息であり、災いをもってさばかないという意味です。
   神の契約は、人の行いや状態とは関係なく、神ご自身が立てられた契約です。条件は一切つけない、これが、神の私たちに対する関わり方です。神は、一度救ったら、永遠にその人の内に住まわれます。ですから、本当に自分は天国に行けるのだろうかと怯える必要はありません。たとえ私たちが放蕩しようとも、破られることはありえません。人は信じれば救われるのであって、行いで救われるのではない、これがキリスト教の骨格です。救いが取り消される心配をする必要はありません。
   パウロは、私たちは神の神殿であり、御霊の住まいであると言い、イエス・キリストは、神が永遠のいのちを与えたら、決して滅びることはなく、誰もそれを奪い取れないと言っています。
   これらはすべて、契約に基づいているのであり、神はこの契約を実行するひとりの人が現れると言われました。イザヤ40〜55章には、メシヤすなわち救い主が来られるという、永遠の契約の具体的な内容が記されています。そして、その方がどんな方かが、イザヤ52:13〜53章に記されています。

『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。』(旧約聖書 イザヤ書 42:6)

『主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。」』(旧約聖書 イザヤ書 49:8)

   この契約に基づいて来られたのが、イエス・キリストです。このように旧約と新約はつながっているのです。永遠の契約は、キリストによって実行に移され、キリストが、あなたを救い出し、死から贖い出し、安息に導いてくださいます。これらの約束は、ノアの永遠の契約に基づき、実行に移されるのです。この平和の契約は決して動かされることはないと神は言われます。

『このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。』(旧約聖書 イザヤ書 54:9,10)

   このように、神が私たちとどのように関わるかということは、すべて契約に基づいており、聖書という契約書に記されています。この契約は、私たちを罰するのではなく、私たちを憐れみ助け導こうとするものです。私たちの神は、私たちがどんな状態であっても見捨てないし、愛し続けて下さる神です。ご自分を十字架に釘付けにした相手にさえ、「この人はわからずに罪を犯しているのだから赦してほしい」と言われました。神は、一度も罪をさばくとは言わず、常に赦すと言い、どんな時も、「あなたを助けたい、憐れみたい、だから、助けを求めよ。」と言っておられます。これが神の奥義なのです。
   人々が契約を理解しないので、神が自らこの世に来られ、愛を見せてくださったのが十字架です。その愛によって、私たちの罪を取り除き、赦してくださいました。罪とは死の恐怖です。私たちは死の恐怖によって見えるものにしがみつき、心を神に向けられなくなっています。ですから、罪を取り除くとは、死の恐怖を取り除くことです。神との関係をなくし、愛されていることがわからないために生じている恐れを取り除くには、愛されていると知るしかありません。ですから、神との関係ができると、恐れが取り除かれます。神と人との関わりは愛しかありません。次のことを常に心に留めていきましょう。


・神は人の罪に対して罰を与えない

   神は、私たちを助けるために、罪に気づかせようとして、鞭打つことはありますが、これは決して罰ではなく、神に心を向けさせるためのものです。神は決して人を責めませんから、罰を恐れる必要はありません。旧約新約を貫いているのは、神の愛です。神と私たちの関係は、恐れによって従うのではなく、愛されていることに気づいて、神に従いたいという願いが起きてくるものなのです。

『エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにするこができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。』(旧約聖書 ホセア書 1:8,9)


・何があっても見捨てない

   私たちを苦しめている罪は病気と同じです。神は決して病人を見捨てたりはしません。


・私たちに必要なのは信じて受け取ること

   神は救いに対して、何の条件も出さず、信じる者を誰でも救い、罪から贖い出し、二度と見捨てたりなさいません。これらはすべて神が一方的にしてくださることです。私たちがなすべきことは、困難や問題に対してつぶやかないことです。
   あなたがつらい時こそ、神は何とかしてあなたを助けたいと、熱い思いを抱かれます。あなた一人が苦しんでいるのではなく、神はあなたをなんとか助けたいと思っておら    神は人間ではありませんから、どのような方で、どういう考えを持っているか、私たちとはまったく考えが異なります。神は怒らず、ただ愛し、助けたいと願っておられるのです。この愛を示すものが十字架です。イエス・キリストは、あなたを愛し、あなたを贖い出すために、十字架にかかりました。これが奥義なのです。