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2014年月11月16日
十字架の意味
(新約聖書 コロサイ人への手紙 1章16節〜)
・三位一体の神

『御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:15〜17)

   御子イエス・キリストは、神であり、すべてのものを造られたお方です。キリスト教の三位一体の神は、父なる神、イエス・キリスト、聖霊であり、それぞれが異なった人格を持ったひとりの神です。
   三位一体に関しては、誤った理解がされている場合も多いので気をつけましょう。父なる神とイエス・キリストと聖霊は、それぞれ人格を持ち、そこに上下関係はなく同じ位であり、同じ思いを共有し、同じ働きをしておられます。お互いに意見を出し合い話し合って一致するわけではなく、父なる神がリーダーシップを取ってイエス・キリストと聖霊がそれに従っているわけでもありません。また、父なる神もイエス・キリストも聖霊も、実際は同じ神だが、状況に応じて呼び名が変わるのだという考え方も間違った理解です。
   創世記1章1節には、「初めに、神が天と地を創造した。」と記され、原語では、「神」は複数形、「創造した」は単数形で表されています。つまり、神は複数おられるが、働きはひとつであり、聖書は、その冒頭から三位一体の概念を示しているのです。この世界は、父なる神が単独で造ったのではなく、初めからイエス・キリストと聖霊も共に参加して造られたのです。

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」』(旧約聖書 創世記 1:26)

   私たちが礼拝する神は、三位一体の神です。三位一体とは、誰かに優位があるわけではなく、それぞれが互いを補っている、唯一絶対の神です。

『それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:21)

『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:11)

『御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:14,15)

   これらの御言葉によって、父なる神とイエス・キリストは一つであり、キリストと聖霊は一つであり、聖霊と父なる神は一つであることがわかります。それぞれの神が初めからおられ、互いの中にいて、互いを助け合い、同じ思いでおられる一つの神なのです。

『また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:18〜20)

   イエス・キリストが、人としてこの世に来られたのは、私たちの罪を背負うためばかりではなく、人はどのように生きるべきか、その生き方を私たちに示し、人として神に仕えるとはどういうことなのかを弟子に教えるためでもあります。ですから、キリストを「御子」と呼ぶのです。
   キリストは人として生きられましたが、人ではなく神です。イエス・キリストの中には神の本質が満ち満ちており、神ご自身です。神ご自身が、神と人との壁を打ち壊してくださり、神と私たちを和解してくださったから、私たちは教会のかしらとして、イエス・キリストを信じるのです。

・キリストは何のために十字架にかかられたのか

『あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:21,22)

   イエス・キリストが十字架にかかり、神と私たちを和解させてくださったことによって、私たちは神の御前に立つことが出来るようになりました。なぜキリストは十字架にかかる必要があったのでしょうか。なぜ十字架で和解することができるのでしょうか。
   古典的な解釈として、人が罪を犯したことに対する神の怒りを鎮めるために、イエス・キリストが「私が罰を受けますから、どうか人々を赦してください」と、十字架にかかったという解釈があります。しかし現在は、この解釈はほとんど受け入れられていません。この解釈によって、「なだめの供え物」という訳が生まれましたが、現在この訳には多くの異議が申し立てられています。
   この訳が受け入れられない理由は、父なる神は怒り、イエス・キリストはなだめるということであれば、父なる神とイエス・キリストの考え方が異なってしまうため、三位一体を否定してしまうからです。「罪を犯したら怒るものだ」「お父さんが怒ったらお母さんがなだめてくれる」というような、私たちの経験によってイメージしてしまった人間的発想による解釈です。
   今日、広く受け入れられている解釈は、キリストは十字架で、人間の罪の罰を代わりに受けてくださったという考え方です。罪に対しては罰があり、その罰をイエス・キリストが代わりに受けてくださったので、その罰は私たちにはもう適用されない、だから和解できるのだという理解です。しかし、この解釈にも問題があります。聖書には一箇所も「罰を背負った」と書かれていないのです。

・では、どのように解釈すれば良いのでしょうか

『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:18)

『聖書は、信じない者はすでにさばかれている、つまり死んだ状態であると教えます。ですから、私たちが神の言葉を信じないからといって、神が新たに罰を与えてさばくようなことはありません。その人はすでにさばかれていて死んでいるからです。これが霊的な死の状態です。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   聖書が教えていることは、イエス・キリストが十字架にかかったのは、父なる神の怒りを鎮めるためでも、罰を受けるためでもなく、私たちの罪を背負って十字架にかかられたということです。神と私たちの間を隔てている罪という隔ての壁を壊すために、キリストは十字架にかかられたのです。
   聖書は、罪とは死のとげ、すなわち死の恐怖だと語ります(Tコリント15:56)。死には、霊的な死と肉体の死とがあります。霊的な死とは、神が見えないことです。人間は、本来神と共に生きるように造られており、神が見えないと、愛されていない不安を感じます。そのために、人から愛される価値ある者になろうとするのですが、この時、妬みや怒り等が生み出され、罪の行いを生み出します。また、肉体の死に対する恐れは、少しでも長生きしよう、お金があれば長生きしても安心だという思いから、富にしがみつかせます。イエス・キリストは、神の言葉をふさいでいるものは、この世の心づかいと富の惑わしだと言われました(マタイ13:22)。つまり、死の恐怖からもたらされたこれらの願望が、罪の行為を引き起こし、神の心を見えなくさせているのです。
   イエス・キリストは、この罪を背負うため、十字架にかかったのです。愛されていると感じられないために人の愛を求め、人から愛されようと人に心を向けて、嫉妬したり苦しんだりするのは、死の恐怖がもたらしたものです。この罪を背負うために十字架が必要だったのです。聖書には、罰を取り除くためという記述は1箇所もありません。神の怒りをなだめるためでもありません。罪を取り除き、死の恐怖を取り除くために十字架が必要だったのです。

・私たちの罪を背負って十字架にかかられた

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14,15)

   イエス・キリストの十字架の目的は、私たちを死の恐怖から解放するためです。死の恐怖によって見えるものにしがみついておびえている私たちは、この恐怖を取り除かない限り、心を神に向けることができず、和解することができません。
   聖書は、全き愛が恐れを取り除くと教えます。たとえどんな罪人であってもあなたは愛されていると知る時、恐れは完全に締め出されます。キリストは、この愛を示すために十字架にかかったのです。

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:14)

   責め立てている債務証書とは死の恐怖です。例えば、ヘリコプターに乗っている時、その扉が壊れて飛んでいき、足元の床が抜け、安全ペルトが切れたとしたら、人は必ず目の前にあるものに無意識にしがみつき、決して離しません。これが死の恐怖から来る人間の行動パターンです。
   同様に、神が見えないことによって潜在的に死の恐怖を感じている私たちは、しがみついているこの世の心づかいと富から手を離すことができずに、神に目を向けることができなくなっているのです。これが、死の恐怖の奴隷であるということです。
   私たちが、人に良く思われたいと願い、良く言われないと腹が立ったり、落ち込んだりしてしまう根底には、死の恐怖があるのです。人の言葉を気にするのは、人を頼ろうとしていることの裏返しです。聖書は、これを、あなたを責め立てる債務証書と言っているのです。
   イエス・キリストは、この死の恐怖を釘付けにするために、十字架にかかりました。死の恐怖が生まれたのは、神との関係を失ったことによるものですから、神との関係を回復し、愛されていることを学習するしか、この恐れを取り除く方法はないのです。

『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:6〜8)

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)


   イエス・キリストは、「あなたを愛している」と教えるために、十字架にかかり、あなたへの愛を明らかにするため死なれました。全き愛、それは十字架の愛です。十字架の愛だけが恐れを締め出すのです。
   あなたを苦しめているのは、死の恐怖という恐れです。恐れの奴隷になっていた私たちを助けるため、まずイエス・キリストが十字架にかかって愛を示してくださいました。「罪を背負う」「死の恐怖を取り除く」とは、罪深くまだ神を知らなかった私たちに対して、神はあなたを愛していると先行して示してくださったということです。
   このことを知れば、私たちは、神を知ることができるようになり、神を愛することができるようになります。多く愛された者は、多く愛するようになると聖書は教えます。愛によって、恐れは締め出され、恐れが締め出されれば、神を愛せるようになるのです。