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2014年月9月28日
礼拝メッセージ
(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:1〜)
・主にあって喜びなさい

『最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:1)

   主にあって喜ぶとは、神様に感謝することです。それが、あなたがたの安全のためにもなるとは、どういうことでしょうか。感謝することは、どのような危険から私たちを守ってくれるのでしょうか。

1.後悔

   誰も過去を変えることはできません。過去を振り返って後悔しても、何も変えることはできませんが、神に助けを求めるならば、神はそれを素晴らしい恵みに変わるチャンスにしてくださいます。大切なのは今、心を後ろに向けるのではなく、前を向くことです。後悔や反省をしても、それを通して神に希望を持たなければ意味がありません。

   神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。福音は、いつまでも悲しみを引きずらずに、喜びに変えることができます。感謝することによって、後ろ向きの心を前向きに変え、後悔を喜びに変えることができるのです。過去を振り返ってただ後悔するのではなく、神に助けを求めましょう。

2.不安

   人は様々なものに不安を抱きます。将来のこと、仕事のこと、家族のこと、健康、人間関係、死んだらどうなるのか…。

   この不安をそのまま放置しておくと、見えるものに惑わされ、間違いを犯してしまう危険があります。不安を解決するために、有効なのが、感謝の祈りです。感謝が不安や恐れを取り除きます。反対に、感謝しないでいると、私たちは不安に押しつぶされてしまいます。

3.憎しみ

   憎しみは、私たちの心を神から離します。怒りや、人を許せないという思いを放置しておくと、ますます心が神から離れます。また、人と比較して落ち込んだりすることも、憎しみに変わります。憎しみを放置してはなりません。許さなければ、私たちはサタンの罠にはまってしまうのです。

   その罠に陥らないためにも、何事に対しても感謝することが有効なのです。憎しみは私たちが身動きを取れないようにさせます。そうならないために、感謝は私たちを守ります。

   幸せと感じる感情と、感謝する感情は同じものです。身の回りの小さな出来事を一つ一つたどっていくと、必ず神に感謝することになります。すべてのことを神にあって感謝しましょう。


・信仰の一致を保つ

『どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:2,3)

   犬とは、悪い働きをする人、すなわち、肉体だけの割礼の者、すなわち、パウロが教えたことと異なることを教える人々で、これらの人々に注意しなさいという意味です。割礼とは、ユダヤ教の儀式の一つです。肉体だけの割礼の者とは、儀式と律法を行うことによって救われると考える人々のことです。
   パウロは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、行いによって救われるのではないと教えました。しかし、当時、それを批判する人々が大勢いました。イスラエルは、長い歴史の中で、人は律法を守る行いによって救われると教え、自分たちで定めた律法をすべてを書き出して、厳格に守り続けてきました。その行いの代表が割礼です。

   教会とは、同じ信仰を保ち、神の言葉に対して同じ理解を持って、成長するところです。『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:13)とあるとおり、それぞれ異なった生き方をして良いのですが、信仰と御言葉の理解に関しては、共通したものを持っていなければならないのです。


・本当の幸せ

『ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:4〜6)

   パウロは、行いがなければ救われないと主張する人々に対して、自分もかつては、そのような人間だったと証ししています。パウロは、神の律法を厳格に守るパリサイ人で、信仰によって救われると教えたキリストに反対し、クリスチャンを迫害してきました。人が救われるには行いが必要なのだと主張する多くの人々よりも、パウロはずっと立派な行いをしていたのです。しかし、パウロはイエス・キリストと出会い、そのような生き方をまったく必要としなくなったのです。

『しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:7〜9)

   パウロは、今まで行いを誇る生き方をしてきましたが、キリストが共におられることを知り、行いに関係なく救われることを知ったとき、今まで自分が築いてきた業績が、ちりあくたに思えるようになったのです。
   人は、自分が築き上げた業績を見て幸せを感じ、他人が築いた業績を見て評価するものです。このような価値観が自分の中にあるために、神に救ってもらうためには、立派な行いをして認めてもらうことが必要なのだと考えてしまうのです。

   しかし、神はあなたの業績に関係なく、あなたを愛しています。この神の愛を知り、神に応答する者すべてに永遠のいのちをくださるのだという福音を知ったとき、パウロは真の幸せに気づき、それまで自分が幸せだと誇ってきたものは、すべてちりあくたになってしまったというのです。イエス・キリストを知ったことこそ、パウロにとって最高の幸せとなったのです。

   人はどうしても、自分の幸せを見えるものに求めるものです。しかし、本当の幸せは、イエス様が共におられることに気づくことです。放蕩息子のたとえから、このことを学んでいきましょう。

   放蕩息子のたとえの前半は、悔い改めとはどういうことかを私たちに教えています。神は、悔い改める者を無条件で赦し、祝福してくださるから、神のもとに立ち返りなさいと教えています。そして、後半は、赦され祝福された弟と自分を比較して、父に対して憤る兄の話です。

『ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』』(新約聖書 ルカの福音書 15:25〜32)

   兄は、自分にしてもらえなかったことを、弟がしてもらっているのを見て怒りました。どちらが愛されているのか、自分の幸せを見えるものに重ね、比較して、自分は不幸だと思ったのです。私たちも、互いに比べて、「あの人の祈りは聞かれて祝福されているのに、自分はなぜ?」と落ち込んだり、怒りを感じたりすることがないでしょうか。そんな兄に対して、父親は、「お前はいつも私と一緒にいる。これ以上の幸せはない。」と、語りかけます。見えるものに自分の幸せを重ねると、本当の幸せが見えないのです。神がともにおられること、これが本当の幸せです。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:16)

   神はあなたの中に住んでおられます。本当の神に出会い、神が共におられることに気づいたら、自分が幸せであることに気づきます。もし、自分は不幸だ、愛されていないと感じるのなら、それは本当の幸せに気づいていないだけです。どうすれば、この幸せに気づくことができるのでしょうか。


・どうすれば幸せに気づけるか

   神が私たちに持っておられる永遠の計画は、私たちをカナンの地に連れて行くことです。この計画は永遠に変わりません。カナンの地とは、安息を意味し、それは、神が共におられる真の平安を得ることです。神は私たちをここに導きたいと願っておられます。どうすれば真の意味で、神が共におられる真の平安に気づくことができるのでしょうか。

『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:36)

   真の幸せに気づくために必要なものは、忍耐です。「忍耐」は、ギリシャ語では「ヒュポモネー」という言葉で、「固く踏みとどまる」という意味です。つまり、患難や試練というつらい出来事にぶつかった時に、逃げないで踏みとどまることが忍耐なのです。

   多くの人は、つらさに出会った時、そんなものと向き合ったりせずに、逃げようとするのではないでしょうか。ある人は快楽に走り、ある人は自分の好きなことをして、つらさから目を背け、ごまかそうとします。放蕩息子の兄は、自分がつらいのはお父さんから祝福されていないからだと考え、お父さんに文句を言いました。人のせいにするというのも、つらさから逃げる行為です。しかし、快楽に逃げたり、別のものでごまかしたり、人のせいにしていたのでは、約束の平安は手に入りません。

   忍耐とは、つらさを味わった時に、どうしてつらいのか、踏みとどまって向き合うことです。逃げたり、ごまかしたり、人のせいにしたりする道をふさぐと、もう神に助けを求めるしか道は残っていません。行き場がなくなって神に助けを求める時、神の愛が注がれ、これまでに体験したことのない平安を手に入れることができるのです。聖書が、つらさに踏みとどまって忍耐せよと教えているのは、神を頼るしかない状況に自分を置き、これまで味わったことのない本当の平安を体験して欲しいと願っているからです。この平安が約束のものです。つらさから逃げたのでは、約束のものを手にすることができません。

   神は、誰の心にもまったき愛を注ぎ、平安をもって応答してくださいます。この時、人は、これまで味わったことのない喜びを心に感じ、「神が共におられる」「神は私を愛している」と気づくことができるのです。こうして、今まで自分が誇ってきたものが、ちりあくたのように思えるようになるのです。

   聖書が、患難・試練・つらさを喜び、逃げるなと教えているのは、その先にあなたが探してきた本当の幸せがあるからです。どんなつらさであっても、神に助けを求めるなら、必ずイエス様が共におられる幸せという答えを手にすることができます。しかし、つらさから逃げてしまうと、神に愛されていることに気づかないままです。

   聖書は、嘆き悲しむ者は幸いであると教えます。つらさに出会っても、逃げないで、神からの答えを見つけるまで、向き合ってみましょう。