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2014年月6月15日
互いに従いなさい
(新約聖書 エペソ人への手紙 5:20〜)
『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:13)

   エペソ人への手紙のテーマは、私たちを神の子の姿に回復する神の計画です。
   私たちは神の子として造られましたが、悪魔によってその生き方ができなくなりました。そこで、神は、私たちがもとの生き方に回復できるように恵みを用意してくださいました。これによって、私たちはキリストに似た者となれるのです。どのようにして、この恵みを受け取れば良いのでしょうか。

『いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:20)

   神は、どんな困難をも益とすることができる唯一の方です。人はよく、何か悪いことが起きると、「バチが当たった」などと言いますが、神は、決してそのようなことをなさいません。たとえそれが自分の失敗から起こった災いであろうとも、神はそれをプラスに変えることができます。ですから、すべてのことを感謝できるのです。
   この一番良い例は、イエス・キリストの十字架です。弟子に裏切られ、敵に捕らえられ、十字架で処刑されるという状況は、悪魔の完全な勝利のように思われました。弟子たちにとってこれ以上大きな患難はありません。しかし、この十字架が神と私たちの関係を回復する素晴らしい栄光の時となったのです。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   あなたが神を愛し、信頼するなら、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。これが私たちの希望です。過去を思い悩むのではなく、益と変えられると知って、どんなことも主にあって感謝しましょう。

『キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:21)

   聖書は、繰り返し「恐れるな」と教え、同時に「神を恐れよ」とも教えています。なぜなら、私たちは恐れを抱く対象に心を向けるものだからです。「神を恐れよ」とは、神に心を向けよという意味です。
   神を愛するとは、神の言葉を守ることです。キリストに目を向けると、神の言葉に目を向けることになり、私たちは互いに従うことができるようになります。

『私たちはキリストのからだの部分だからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:30)

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:25)

   私たちは神のいのちによって造られたキリストのからだの一部です。それぞれに、神のからだの働きに必要な役割が与えられています。聖書は、目に見える兄弟を愛せない者は、目に見えない神を愛しているとはいえないと教えます。ひとりひとりがキリストの一部であるため、神を愛する者は、互いに仕え合い、互いに従うことができるようになるのです。
   神様はいつも私たちと共におられ、私たちひとりひとりの中におられます。ですから、人を愛することはそのまま神を愛することにつながります。私たちは互いに仕え合うことで、実は、神に仕えているのです。


・どのように従い合えばよいか

・妻たちへ

『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:22〜24)

   聖書は、教会の最小単位は家庭であり、その核は夫婦であると教えます。夫婦が核となって家庭が作られ、社会が形成されるのです。 神は夫婦に対して、まず妻に「主に従うように」夫に従うように教えています。もし、イエス様が何か用事を頼んだら、何よりも優先しはしないでしょうか。実際には、夫のことは子どもよりも後回しになっている家庭が多いのではないでしょうか。「現実にはそんなこと無理です」と言うご婦人もいると思いますが、神はそのように命じておられます。自分の力でできないのであれば、神に頼り祈る道があります。
   神は、夫婦の関係を教会とキリストの関係になぞらえています。教会はキリストに仕える立場です。妻という立場になったら、夫に仕えなければいけません。
   ぜひ、夫に言われたことを、ノーと言わずに、喜んでやっていただきたいと思います。また、子どもの前で夫を責めてはいけません。妻が権威を軽んじると、子どもたちも親の権威を軽んじ、神の権威を軽んじるようになるからです。 しかしながら、夫は、この御言葉を盾に、妻を奴隷のように従わせても良いわけではありません。夫には次のように命じられています。


・夫たちへ

『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:25〜32)

   夫はキリストが教会を愛したように妻を愛することが命じられています。キリストは、聖徒を愛し、そのために自分の命を犠牲にし、十字架にかかられました。夫は、妻に対して同じように愛することが求められます。
   このように考えると、ただ従うだけで良い妻の方が簡単なことを命じられているようです。愛することはもっと難しいものです。自分を愛するように、妻を愛することを実行しようとするには、神に祈るしかありません。
   夫は妻を責めず、優しくし、自分にする以上のことをしなければなりません。

『それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:33)

   キリストと教会の関係は、一度成立すると一生続きます。神の前ではその関係は壊れることがなく、誰も壊すことはできませんし、壊そうとしてはいけません。
   夫婦の関係も同様です。問題にぶつかったら、別れるのではなく、一つとなって祈って乗り越えていかなければなりません。
   夫婦の中に、このようなキリストと教会のような秩序が保たれているかどうかが重要です。それが子どもに福音を継承する道なのです。妻は夫に従う基本を守り、夫は妻を愛する基本を守りましょう。夫婦の関係は、神と私たちの関係を築く上での基本です。子どもはそれを見て、神と自分との関係を学ぶのです。
   クリスチャンになると、しばしば自分の霊的な調子の悪さを感じることがあります。体調不良に原因があるように、霊的な調子の悪さにも何らかの原因があります。喜びや平安を感じられない、つい人をさばいてしまうなどの症状の原因は、周りの人々との関係ではなく、夫婦の関係に原因があることも多いものです。


・子どもたちへ

『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:1〜3)

   神の言うことは聞くけれど親の言うことは聞かない、などという状態はあり得ません。聖書は、できるだけ若いうちに神を知るように教えています。小さい時から、親を敬って従うことができる子どもは、神を愛する子どもになります。神と共に生きる幸せな人生をつかむことができます。目に見える親を愛せなければ、目に見えない神を愛せません。子どもが神を知るために、親を愛し、親に従うことを知る必要があるのです。ですから、子どもへの最初の戒めは、親を愛し従うことなのです。


・両親へ

『父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:4)

   「父たちよ」とありますが、これは両親に対するメッセージです。親が子どもを怒らせてはいけない理由は何でしょうか。コロサイ人への手紙には、次のように述べられています。

『父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:21)

   人は気落ちすると、どうせ自分はダメだというネガティブなセルフイメージを持つようになります。子どもをそのように育ててはいけません。皆さんは、教育するつもりで、子どもを怒らせたり、イライラさせたりしていないでしょうか。子どもを間違った方向に進ませないためには、神の言葉で育てなければなりません。聖書は、私たちに希望を与えるために書かれたものです。ですから、聖書に基づく教育とは、希望を与える教育です。その希望の第一は、永遠の命です。主の教えと訓戒によって子どもを育て、何よりもまず、イエス・キリストを信じて永遠の命を得ることを教えることが重要です。


・すべての人へ

『奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主からうけることをあなたがたは知っています。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:5〜8)

   奴隷とは、権威の下にあるすべての者を指します。ですから、この言葉は全ての人に対して語られています。
   職場や学校や家庭において、権威に従い仕える時、ごきげんとりやゴマすりのような気持ちで、うわべだけ従っても、それは神の前に、まったく意味のない行いです。
   聖書は、どんな場合でも、主に対するように、善意を持って仕えることが大切だと教えます。そうすることによって、私たちは、神からの報いを受けるのです。神の報いとは、私たちの心に与えられる平安です。
   霊的な調子の悪さを感じる時には、人々に対していい加減な気持ちで接していないか、真心から仕えているかどうかを、確認してみましょう。人々に適当な気持ちで接する時、私たちの心は神に向いておらず、常に周りを恐れなければなりません。しかし、真心から仕えるならば、神から平安という報いを受けることができます。
   このように霊的な問題には、身近なところに解決が潜んでいることが多々あります。真心から仕えることによって神との関係がうまくいくようになり、相手にも真心が伝わって、社会の人間関係もうまくいくようになるものです。


・人の上に立つ人へ

『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:9)

   奴隷と同じようにふるまうとは、彼らをこき使って差別するのではなく、彼らに仕え、愛しなさいということです。
   神は、社会でそれぞれ仕え合うように教えています。それが神を愛し従うことにつながるからです。私たちが社会の中で不満を述べて抵抗したり反抗したりすることは、かえって自分を追い詰めることになりますから、してはいけません。


・従うことができないとき

   さて、実生活でこられの御言葉に従おうとすると、現実には困難なことの連続です。理不尽な要求を突きつけられた時など、主に従うように従うことが原則ですから、神に逆らうことを実行することはできず、どのように従えば良いのか迷うこともたびたびです。
   しかし、これらの御言葉の一番の目的は、自分の力では神の命令すべてに従うことなど、絶対に不可能だと知るところにあるのです。
   なぜなら、神の一番の目的は、私たちの行いを変えることではなく、できない自分に気づいて神に助けを求めるように変えることだからです。神に助けとあわれみを求める祈りこそが、十字架の愛を知る重要なカギです。神は、私たちが自分自身の弱さを知って、こんな自分でも愛されていると、気づいてほしいのです。

『人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。』(新約聖書 エペソ人への手紙 3:19)

   私たちの成長のカギは、神の愛を知ることにあります。それは、自分の弱さに気づくことでしか得られません。自分の弱さに気づき、神にあわれみを求め、助けを求める祈りを通して私たちは成長し、自分の力ではなく、「御霊の力によって」少しずつ行いもできるようになっていくのです。
   神の命令に従うことを願って御言葉を実行するとき、自分には実行できないことに気づき、神の助けによってできるように変えられていく、これが、神が教えている恵みの道筋です。御言葉を実行できないと言って投げ出すのではなく、できるように助けてくださいと神に祈り求め、神の愛によって変えられていくことを求めましょう。このようにして、キリストに似た者に変えられていくのです。自分の弱さに気づかなければ、愛に気づくことはできません。自分が病気だと気づかなければ、医者を頼りません。病気に気づいて初めて、医者のありがたさがわかります。神の第一の目的は、自分自身の罪という病気に気づかせることなのです。こうして神の愛に触れ、聖書の言葉が与える希望を自分のものとすることができるのです。