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2014年月6月8日
御霊に満たされなさい
(新約聖書 エペソ人への手紙 5:7〜19)
『ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。―光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです―そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:7〜14)

   見えるものに信頼する生き方に同調せず、地の塩として、人々の中で希望となるような生き方を心に留めましょう。
   人間の生きる動機の原点は、愛されたいという欲求です。ところが、人によく思われようとすると、相手の考え方がそのまま自分の中に入り込んでしまいますから、悪いものに汚染されないように気をつけなければなりません。人間とは、交わる相手から影響を受けて、自分の考えを形成するものです。悪いものと交わるか、良いものと交わるか、それによって自分を作り上げることができるのです。
   聖書は、キリストを信じる者は地の塩であることを教えています。わずかな量で全体を締めることができる塩のように、何が真実で何が正しいかを明らかにする者となって、悪い影響を受ける者ではなく、むしろ良い影響を与える者となりなさいと教えます。
   江戸時代初期、200万石以上の大名のうち、実に3分の1がキリシタン大名でした。それは、高山右近というキリシタン大名が熱心に伝道したからであり、黒田官兵衛もその影響を受けた一人です。キリスト教の教えは地の塩として、いつの時代も多くの人の憧れと希望となっています。その神を信じている私たちは、この世に同調するのではなく、むしろ光となって生きることを求めましょう。

『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:15,16)

   「生かす」というギリシャ語は、本来「買い戻す」という意味です。買い戻すものとは、今まで奪われていた自分の人生であり、神が買い戻した人生を正しく使いなさい、自分の生き方を吟味して悔いが残らない生き方をしなさい、と教えているのです。

『ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:17)

   神の御心とは、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にすること」(エペソ1:5)です。人間はもともと神の子として造られていたのですが、悪魔によってその生き方ができなくなってしまったため、神は本来の生き方ができるように、十字架を通して恵みを用意し、どのように生きれば良いかを教えてくださいました。
   恵みの第一は、イエス・キリストを信じることで救われ、神との関係が回復するという救いの恵みです。そして、第二の恵みが、救われた者が神に近づき、神のように生きることができるようになるための、罪を取り除く赦しの恵みです。
   赦しの恵みによって罪が取り除かれることで神に近づくことができ、その結果神のように人を愛し、赦す者となれるのです。これが神の御心です。この御心を実現するために、神は、ひとりひとりになすべき役割を与えておられます。このことをよく悟り、何があってもつぶやかず、神を信頼するものになることが、神に近づくことであり、神の御心です。

『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:18)

   神を知る前の人間は、見えるもので心を満たすことしか知りません。しかし、神を知ってからは、聖霊で心を満たすことができるようになります。神は、酒を飲むか飲まないかを問題にしているのではなく、何で心を満たすかを問題にしておられるのです。
   よく、クリスチャンになるには、酒を飲んではいけないという戒律を守らなければならないと思っている人がいます。しかし、これは大きな間違いです。クリスチャンになるために必要なのは、イエス・キリストを信じることだけで、行いは問題にされません。
   この御言葉は、イエス・キリストを信じた後は、以前と同じように見えるもので心を満たすのではなく、御霊で心を満たすように教えているのです。見えるもので心を満たそうとし、神に心を向けないことが、聖書の教える罪です。パリサイ人は、目に見える戒律を守っていましたが、心は神に向いていませんでした。戒律は、それを守ることで、自分の心は神に向いていると勘違いをする危険があります。そもそも○○してはいけないという考え方自体が問題です。神は、行いよりもその人の心を問題にするからです。パウロは、見えるもので心を満たそうとして、神に心を向けないことは、偶像礼拝だと定義しました。

『あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です、―こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:5)

   偶像礼拝とは、むさぼり、すなわち見えるものを欲することです。しかし、気に入ったものを見て、欲しいと思わない人はいませんし、欲しいものを手に入れて、喜ばない人はいません。つまり、すべての人が偶像礼拝者です。神によってではなく、見えるもので満足しようとしてしまうこと、これが私たちの中の戦わなくてはならない本質なのです。
   この本質がわからないと、クリスチャンになった後も、この世の判断の基準に従って、○○するからいい人、しないから悪い人、というレッテルで人を判断します。しかし、神はそのような見方をしません。ですから、クリスチャンになるために戒律を守らなければならないなどということは絶対にありません。
   聖書が私たちに教えていることは、見えるもので満たされたければそれを求めてもかまわないが、決して平安にはなれない、もし本当に平安が欲しいのならば、御霊に満たされなさいということです。神は私たちに、御霊に満たされることを目指して欲しいと願っておられます。目指さなくても天国に入ることはできますが、神に似た者となり、愛ある者になりたければ、御霊に満たされなさいと教えておられるのです。
   大切なことは、何かをするかしないかではなく、心がどちらを向いているかということです。その本質が見失われると、行いは立派だが心は神に向いていないということが 多々起こります。しかし、世の中で快楽をむさぼっていても心が神に向いていればそれで良いのかというと、そういうことはありえません。もし、神に心が向いていれば、この世の快楽に興味を失うからです。
   つまり、偶像礼拝とは、努力してやめるものではなく、良いものに満たされるから興味を失うものなのです。聖書は、戒律ではなく、御霊に満たされることを求めよと教えています。


・御霊に満たされるにはどうすればいいのか

『詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:19)

   御霊に満たされるために、詩と賛美と霊の歌という三つの提案があります。これは、詩篇を読み、賛美をし、聖霊による祈りを通して、神に心を向けることです。
   聖霊について、聖書は次のように教えています。

『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』(新約聖書 ルカの福音書 24:49)

『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:16)

『しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:26,27)

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』(新約聖書 使徒の働き 1:4,5)


   バプテスマとは浸すという意味で、浸すものの所有に変わるという意味が含まれています。水のバプテスマで神の所有物となり、聖霊に浸されることで、聖霊の所有物になるのです。聖霊のバプテスマの目的は、聖霊の力を受けて、伝道するようになることです。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』(新約聖書 使徒の働き 1:8)


・ペンテコステ

『五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』(新約聖書 使徒の働き 2:1〜4)

   ペンテコステ(五旬節)は50番目という意味で、過ぎ越しの祭りから50日目、つまり、イエス・キリストの十字架から50日目に、上記のような出来事がありました。「他国の言葉」とは、直訳すると「別の舌がしゃべり出した」であり、異言とも訳されます。この日、弟子たちは聖霊に満たされて異言を話し始めたのです。
   ヤコブの手紙に、船をコントロールするものは舵で、馬をコントロールするものはくつわであるように、人をコントロールするのは言葉だと書かれています。私たちが聖霊の所有になることで、聖霊が私たちの舌をコントロールし、聖霊が話させてくださる通りに祈ることができるのです。これが、エペソ人への手紙で語られている霊の歌です。
   異言とは、聖霊に満たされるために神が与えてくださった賜物です。聖霊に自分自身を委ねるなら、聖霊が私たちの舵取りをして、異言を語らせてくださいます。異言は、私たちに力を与える賜物です。
   イエス様が十字架にかかった時、弟子たちは皆イエスを知らないと言って逃げていきました。その弟子たちが、ペンテコステの後、積極的にイエス・キリストを証しし、殉教の死をも恐れず語り続けるようになったのはなぜでしょうか。それは、今まで自分の考えによって生きてきた彼らが、聖霊の力によって伝道するように変わったからです。それを記念した日がペンテコステです。

『そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」』(新約聖書 使徒の働き 2:38,39)

   救われることで聖霊のバプテスマを受ける機会を手にします。聖霊のバプテスマは、救われた証ではなく、賜物です。水道や電気が生活に便利なものであるように、あると便利なものです。聖霊に満たされ、聖霊と共に生きるためには、自分の人生を握っていたその手を離し、私たちを導いてくれる聖霊にゆだねることが必要です。そこで、自分自身をコントロールする舌をゆだねることで、聖霊の力を受けるのです。
   こうして、力を受けた弟子たちは、大胆に伝道するようになり、キリスト教が全世界に広がっていくようになりました。まず救いを受け入れ、さらに聖霊の賜物を求めましょう。


・ペンテコステの歴史

   イエス・キリストの昇天後、ローマ帝国はキリスト教を激しく迫害しましたが、それにも関わらずキリストを信じる人々は爆発的に増え続け、ついにローマはキリスト教を国教にしてしまいました。ところが、その頃から、聖霊に満たされて異言を語るという現象が歴史の中から消えてしまったのです。聖フランチェスコが人にはわからない言葉を語っていたなどという記録はあるものの、教理の中に異言についての教えがなくなり、聖書の中だけの出来事になってしまいました。
   16世紀に宗教改革が起こり、多くの人が聖書を読むことができるようになると、人々の中に使徒の時代に起きた出来事を知りたいという願いが起こり始めました。そのような人々が集まって祈るようになり、20世紀の初め、同時多発的に世界の各地で、彼らが異言で祈ることができるようになったのです。これがペンテコステ運動の源流です。
   キリスト教には大きく分けて、三つの信仰の立場があります。一つは、現実社会を重視し、聖書には神話や誤りも含まれると考えるリベラル派(自由主義神学)と、もう一つは、聖書は誤りなき神の言葉ととらえる福音派です。さらに、聖書に記されている出来事はすべて現在も起こりうると考えるのがペンテコステ派で、当教会はこの流れを汲んでいます。
   ペンテコステ運動は、世界宣教に大きな力を持ち、特に20世紀になって、アフリカでクリスチャンが爆発的に増えました。また、ペンテコステ運動は賛美を改革し、世界中で新しい賛美が生まれるようになりました。キリスト教以外に与えた影響も大きく、エルビス・プレスリーは、ペンテコステ運動に触発されて彼の音楽スタイルを開花させたと言われており、今日の様々なスタイルの音楽は、ペンテコステ運動に端を発しています。
   このようにペンテコステ運動は、神の奇跡を信じる信仰と、新しい賛美を生み出し、宣教の力を与え、私たちの信仰生活に影響を与え、世界に影響を与えました。そうした働きの源流は、聖霊に満たされる経験です。
   せっかく救われたのですから、このような賜物があることを知り、ぜひ求めましょう。求める者には必ず与えると神は約束しておられます。神は私たちに、神と共に生きる人生の喜びを知ってほしいと願っておられるのです。