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2014年月5月11日
一つとなる
(新約聖書 エペソ人への手紙 4:1〜)
・クリスチャンにふさわしい歩みとは

『さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:1)

   囚人とは捕らえられた者です。神の素晴らしい愛を知ると、その愛から離れたくなくなります。それが、神の愛に捕らえられた主の囚人です。「召された」とは、私たちが神を探し当てたのではなく、神の側から愛が始まり、私たちは神に呼ばれて救われることができたことを意味しています。救われた者にふさわしい歩みとして、聖書はどのようなことを教えているのでしょうか。

・神の子としての平安

『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:2,3)

   「寛容を示す」と訳されたギリシャ語「マクロスミア」は、「怒りから遠ざかる」という意味があり、「忍耐」「寛容」などと訳されます。謙遜と柔和を尽くして怒りから遠く離れるように教えられているのは、「怒り」が、私たちの心を神に向けなくさせるものだからです。心を神に向けさせず、神と私たちの間を引き裂くものを罪と言います。
   一般的に、心は「知性・感情・意思」から成ると言われますが、怒りは、感情を神に向けなくさせます。知性を神に向けさせないものは、見えるものに価値を見出す「肉の思い」であり、意思を神に向けさせないものは、御言葉を信じない「不信仰」です。「怒り」「肉の思い」「不信仰」は、神との間を引き裂く罪なのです。そこで、神から心を引き離す「怒り」から離れるために、「愛を持って忍び合う(原語では「我慢する」という意味)」ように、教えられています。
   「平和のきずなで結ばれる」とは、人間同士のきずなではなく、神との平和を築くことです。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:14,15)

   キリストこそ私たちの平和です。国交のなかった国同士が平和によって国交を回復するように、救いとは、神と私たちとの国交が回復した状態です。しかし、交わりができる状態になっただけではまだ何も始まっておらず、その後、交わりを深めることで、きずなを強め、ひとつとなっていくことが、本当の平和を実現することになります。
   「平和」と「平安」は、同じギリシャ語が使われます。神との平和を築くことが、私たちの平安です。神を信頼できるようになればなるほど、心に平安が訪れ、その平安がそのまま他の人との関係に反映されますから、まずは、神との絆をしっかり築くことが大切です。ところが、多くの人が神との関係はそっちのけで、人との関わりを回復しようとしてしまいます。そうすると、相手に気に入られることをするか、相手を変えようとすることになり、怒りを溜め込むことになります。それは、聖書が教える愛ではありません。
   神との関係を回復すると、怒りが力を弱めます。そして、神との平安をもとに人間関係を築くと、上手く築けるようになります。まずは、神との関係をしっかり築き、神と思いをひとつにすることが大切です。

『からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:4〜6)

   エペソの手紙は、神には永遠の計画があるという話から始まっています。その計画とは、私たちを神の子とする計画で、「神の召し」とはそのために召されたことを表します。

『神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:5)

『また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:18,19)

   神が私たちを召した望みはただひとつ、私たちを神の子とすることです。神は、私たちに、そのことをはっきり知ってほしいのです。
   神の子とは、神と同じように、神を愛し人を愛することができるようになることです。ですから、聖書の戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなた隣人をあなた自身のように愛せよ。」という二つに集約され、これを目指すように教えられているのです。
   神を愛し、人を愛する…それが私たちの本来の姿です。それが私たちの心に誠の平安をもたらします。

・キリストのからだとしてひとつになる

『私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」―この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです―こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:7〜13)

   神は私たちひとりひとりに、キリストの賜物の量りに従って、異なる役割・働きを与えました。聖書は、これを「キリストのからだ」と説明しています。

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官はことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:20〜27)

   神がひとつであるように、キリストのからだである私たちも、ひとつとなることを目指します。ひとりひとり働きが異なるのは、神が定めたものであり、それは価値の違いではなく、私たちが互いに助け合ってひとつとなるためです。神がそれぞれに異なる賜物を与えたのは、キリストのからだとして、互いを必要とすることを学び、互いにいたわりあう神の愛を学ぶためです。
   ところが、多くの人が、働きで人の価値を量るという誤りを犯しています。それは、聖書の価値観ではなく、この世の価値観です。この世では、役割の違いは価値の違いであり、報酬の違いです。しかし、この世のやり方にならって人を評価するのは、神の子として間違ったことです。
   イエス様の弟子たちは、よく誰が一番偉いかを競っていました。彼らにとって、一番偉い人は、バプテスマのヨハネです。確かに、キリストが来られる前に人々の心を神に向けて整えるというヨハネの働きは、非常に重要です。ところが、イエス様は、「天の御国の一番小さい者でも彼より偉大です。」と言われました。(マタイ11:11)
   つまり、神の目には、皆同じように必要な器官であり、神はすべての人を同じく愛しておられるのです。ですから、この世の価値観で、人を比較するのは間違いです。ある面で、助けを必要とする人もいるし、自立できる人もいます。それは愛を学ぶためです。この世界には、いろんな人がいます。互いのために祈り合い、ひとつとなって愛を学ぶ場所、それが教会です。

『それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:12,13)

   キリストのからだとして、教会がひとつになるために、神は、聖徒を整えて、奉仕の働きをさせることを教えています。
   聖徒を整えるとは、正しい動機で奉仕するように導くことです。それは、神に愛されていることを知って、神を愛したいという動機で、自発的に行う奉仕です。そうすれば、奉仕をすることで感謝が生まれます。ところが、自分を見てもらいたい、褒めてもらいたいという動機が心の中にあると、奉仕をすることで、一致ではなく、かえって分裂が起きてしまうのです。
   奉仕の目的は、私たちが互いに愛を学ぶことで、キリストの満ち満ちた身丈に達することです。キリストの中に満ちているものは愛です。キリストの満ち満ちた身丈に達するとは、キリストと同じように愛する愛を手に入れるということです。

・愛とは何か

   愛とは、関わり方です。神の考える関わり方と、人の考える関わり方は、まったく異なります。聖書では、一般的に人の関わり方を表す言葉として「フィリア」が使われ、神の愛を表す言葉として「アガペー」が使われています。

   神の愛の特徴は次のようなものです。

1.信頼
   三位一体の神の関わりは、何があっても絶対に信頼し、絶対に裏切らないものです。
   人が何かを信頼するには、保証や見返りを必要とします。もし、相手が自分の期待した通りにならないと、信頼関係は崩れます。キリスト教の結婚式では、健やかな時も病める時もどんな状況であっても愛することを約束しますが、多くの夫婦が、問題が起きると喧嘩したり、不満を抱いたりして、約束したことを守れません。
   しかし、神は、相手がどのような状況であっても信頼します。私たちがどんなに罪深い者であっても、ベストを尽くしてくださるのが神の信頼です。
   イエス・キリストは、当時、罪人の中で最も忌み嫌われていた取税人をも愛し受け入れ、当時の律法で最も重い刑罰を受けるべき姦淫を行う女性をも愛し受け入れました。私たちがどんな者であろうとも、神の愛は変わらず、私たちを信頼してくださるのです。神の信頼を、人間の信頼と同じように、安っぽいものだと考えてはなりません。

2.相手のためにいのちを捨てる
   人はまず自分の利益を考え、自分さえ良ければと考えて、自分の益にならないような関わり方を避けるものです。愛する者のためになら、命を投げ出すことのできる人はいるかもしれませんが、自分を憎む者や敵のために命を捨てる愛を人は持っていません。
   しかし、イエス・キリストは、自分を捕らえ、敵として向かってくる人々に対しても、いのちをお捨てになりました。それが十字架です。

   このように、神の愛は、何があっても変わらない絶対的信頼と、いのちさえ惜しまないという関わりです。これがアガペーです。神は、私たちが神の子として、このようなキリストと同じ愛を持つことができるように願って、私たちを召されたのです。
   どうしたらこの関わりができるようになるのでしょうか。
   その方法はただ一つ、あなたが自分の罪に気づき、赦されたことを知ることです。あなたがどんなに罪深くても、神はあなたを愛しておられると、深く知れば知るほど、人を愛して生きることができるようになります。人を愛することができるようになるには、十字架の愛を知ることです。ですから、すべては、神との関わりによって実現するのです。