ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年2月23日
『三位一体の神について』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章7節〜)
『あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまづきは取り除かれているはずです。あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:7〜12)

   いつの時代も、私達は間違った教えに十分注意しなければなりません。わずかなイースト菌がパンを発酵させるように、わずかな間違いが教会全体を分裂させることもあります。間違った教えに注意するために重要なことは、正しい神の理解を持つことです。ここを間違えると、信仰の全てが崩れてしまいます。
   聖書は、神は唯一であることを繰り返し教えています。ところが実際には、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の3人がおられます。このことを理解するために、キリスト教は約1500年という長い時間をかけて、三位一体という理解にたどり着きました。この三位一体を信じないグループは、いくら聖書を使っていても、キリスト教ではありません。
   三位一体は次のように定義されます。「唯一の神の一つの本質の中に、互いに区別された父と子と聖霊の三つの位格が存在する。三つの位格は、互いに優劣はなく、誕生における時間的な差もなく、従属的な関係もない。互いの間には絶対的な信頼関係があり、同じ思いを共有し、互いに愛し、使え合い、互いが互いの関わりの中で存在している。」
   唯一なる神という本質の中に父と子と聖霊がおられ、互いに一つの思いを持ち、一つの働きを成しておられるため、人間には唯一にしか見えない存在であるということです。ただし、いくら神学的に間違いのない定義があっても、神を正しくイメージできているかどうかは、別の問題です。三位一体については、歴史上幾度も間違った理解が生まれました。


三位一体を間違えて理解している代表的な例


1.三位一体とは、父・子・聖霊が話し合って物事を決めておられるという間違い

   これは、それぞれ独立した位格を持っていることを説明するには良いのですが、唯一なる神を説明するには非常に不十分です。話し合うということは、一致しない部分があるかもしれないということです。これは、唯一なる神とは異なります。

2.三位一体とは、父なる神がすべての命令を出し、イエス様と聖霊様は父なる神の指示に従って物事をなしているという間違い

   これは、一つの思いという説明にはなりますが、神が従属関係になってしまい、平等な立場にないという点が間違っています。

3.三位一体とは、一人三役の神であるという間違い

   神はお一人であり、場所を変えれば肩書きが変わるように、地上ではイエスとしての働きをし、現在は聖霊としての働きをするという考え方です。これでは独立した位格を説明することはできません。

   他にも神に関する思い違いの例は数多くあります。キリスト教ではない異端グループは、クリスチャンを攻撃する材料として三位一体の理解を用いることが多く、理解の曖昧なクリスチャンはすぐに惑わされてしまいますから、正しい理解を持つことが非常に重要です。
   私達が、三位一体について間違った理解をしてしまう原因の一つに、言葉の持つイメージで理解してしまうことがあげられます。父と子と聖霊という言葉から、従属関係・上下関係を勝手にイメージするわけです。しかしこの言葉は、神はお互いに親密な関係であることを、私達が経験的に理解している言葉に置き換えて説明しているに過ぎません。
   キリストに対して子という言葉が使われるのは、親子は財産を共有することから、父なる神とイエス・キリストはすべてのことを共有していることを説明するためです。ところが、子は父によって造られたものというイメージを持つ人々がおり、このイメージを土台にエホバの証人などの異端が生まれています。
   聖書はキリストについてその生涯を表した福音書を通して、特に詳しく説明しています。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:1)

   ヨハネの福音書は、冒頭で、イエス・キリストを「ことば」と表現して、説明しています。つまりこの文章は、「初めにイエス・キリストがおられ、イエス・キリストは父なる神と共におられ、イエス・キリストは神であった」と説明しているのです。「共に」という言葉は、ギリシャ語の「プロス」が使われ、これは、互いに向き合った親密な交わりをしている状態を表します。イエス・キリストは父なる神によって造られた存在ではなく、初めから神として存在しておられたことがわかります。
   続いて、聖霊という言葉ですが、一般的に聖霊という言葉は、神のエネルギーや力などのイメージが持たれます。しかし、聖霊とは、神の性質・性格を表した言い方で、聖霊なる神には名前がありません。聖霊、御霊、助け主などの象徴的なことばで表現されているこの方は、神から出るエネルギーや力ではなく、人格を持つ神です。

『しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:26)

   聖霊は、初めから父なる神とキリスト共に存在していた神であられ、私達に働きかけ、ことを成して下さっています。
   キリスト教では、父なる神は天地を創造された方、イエス・キリストは十字架の贖いで私達の罪を赦してくださった方、聖霊は今日私達の中に働いて私達を導いてくださる方と理解しますが、ここで抜け落ちてしまいがちな理解が、他の位格の神も同時に共にいて働いておられたという点です。父なる神が天地を造った時、イエス・キリストも御霊も共におられ、一緒にことをなしておられます。十字架も同様であり、現在もイエス・キリストと父なる神は、御霊と共におられます。代表的なものをいくつか学んでみましょう。

『初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。』(旧約聖書 創世記 1:1,2)

   旧約聖書はもともとヘブル語で書かれており、この御言葉は、「神」が複数形、「創造した」は単数形で書かれています。例えば、英語で主語が「We」の場合、be動詞は通常「are」を使うところ、「is」を使っている状態です。これは聖書が間違っているのではなく、神は三位一体で一つであるため、このような表現になっているのです。また、この箇所から、御霊が天地創造に参加していることもわかります。

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」』(旧約聖書 創世記 1:26)

   この御言葉の「神」も複数形であり、三位一体を表していることがわかります。

『なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:16,17)

   このように、天地創造には、父なる神と御霊と共に、イエス・キリストもおられました。三位一体の神は、それぞれの手法は異なりますが、常に共にいて、ひとつの働きと、同じ思いを共有し、互いに愛し仕え合う絶対的な信頼関係で結ばれているのです。

『御霊はわたし(キリスト)の栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:14,15)

   父が持つものは全部キリストのものであり、キリストが持つものは全部御霊のもので、御霊が伝えるものはキリストが伝えるものです。これが、すべてのものを共有し、一つ思いで互いに助け合う三位一体の関係です。

『それは、父よ。あなたがわたし(キリスト)におられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:21,22)

   人間は、神に似せて造られました。三位一体を正しく理解するならば、人間も、互いに信頼し、愛し合い、助け合う関係になるように造られたのだと理解できます。このように、神をどのように理解するかによって、私達の人間関係も変わってくるのです。

   もし神をピラミッド型の関係だと理解すると、人間社会も従属関係を持つことに疑問を抱かなくなります。しかし、父と子と聖霊は従属関係ではありません。ですから、神は、人を神に従属するようには造らず、イエス・キリストは私達を友と呼ぶと言われました。三位一体の神を間違ったイメージでとらえることにより、私達は神と私達の関係も間違ってとらえてしまいます。神と私達の関係は従属関係ではありません。愛し合う関係です。正しい神の理解から、正しい人間理解が生まれます。
   ここに、間違った教えが入り込むことがないようにと聖書は教えているのです。



   神の関係をイメージするために、あえて三角ではなく円にしてあります。互いが絶対的な信頼関係で結ばれ、同じ思いを共有する関わりこそ愛です。愛とは関わりを表す言葉です。私達に対する神の関わりは愛です。神が私達を愛するとは、私達を造り、信頼し、仕えることです。だから聖書は互いに愛し合い、仕え合うことを教え、そういう世界を作っていくように教えているのです。

   さて、三位一体に対する正しい理解と同様、救いについての理解も大切です。

『兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:13〜15)

   聖書が教える自由とは、人を愛せるようになることであり、奴隷とは、人を愛せないことです。これが理解できないと神の福音が正しく理解できません。
   私達は、三位一体の神が持つ、互いに信頼し仕える関係で、人を愛しているでしょうか。もしそうでないなら、それは自由を奪われた状態であり、本来の姿ではありません。私達の心は、自由を奪われるとつらくなるようにできています。自分がつらい原因をよく考えてみると、人を愛せない自分に行き着きます。何かを憎んでさばいているか、怒りを覚えている自分です。それは自分に対してかもしれないし、人に対してかもしれません。落ち込みも怒りと同じことです。
   人は、人に親切にしたり愛したりできると喜びを感じます。人を愛することに喜びや感謝を感じるのが自由ということであり、愛せない思いは、私たちを苦しめ、奴隷にします。神が与える自由とは、あなたの心が本当の意味で自由になって、憎しみや敵意や怒りから解放され、人を愛せるようになるということです。
   「自由を与えられるために召されたのだから、それを肉の働く機会にしてはならない」とは、せっかく人を愛せるようになったのに、なぜ肉が働く機会に戻してしまうのか、そうならないように、ますます人を愛する生き方をしなさいと教えているのです。

   私達が人を愛せない原因は、律法であると聖書は教えます。律法とは規定です。人はそれぞれ、様々な価値観の規定を持っており、その価値観で人の価値をはかり、愛せなくなっているのです。神は、私達からその律法を取り除いて、自由にしようとしておられるのです。ですから、律法が人を愛せなくさせていることが理解できないと、神の福音がなかなか正しく理解できません。
   夜間の暴走族の騒音に腹を立てる人々は、「人に迷惑をかけてはいけない」「夜は静かにするべきだ」などの思いを持つ人です。この思いが律法であり規定です。しかし、もし、暴走族の騒音で目が覚めたら10万円受け取れることになったら、多くの人が暴走族を心待ちにし、怒りどころか喜びを感じることでしょう。つまり、敵意とは自分の中の規定が生み出すもので、規定が変われば敵意が喜びに変わることもあるのです。聖書は、人を裁く様々な「ねばならない」という規定を捨てるように、繰り返して教えています。
   人を規定で見てしまう理由は、自分に自信がないからです。潜在的に、自分はダメなものだという恐れと不安があるために、規定をクリアすることで自分の価値を見出そうとします。この規定が奪われたら自分の価値はなくなると恐れているために、規定にしがみついているのです。
   ということは、私達を律法から解放する手段はひとつしかありません。それは、どれだけ自分は価値があるかに気づくことです。そのために、イエス・キリストは十字架にかかったのです。罪を赦すという宣言は、あなたを愛しているという宣言です。あなたは愛される価値がある、あなたには私が命を投げ出して借金を肩代わりするほどの価値がある、あなたは愛されていると、主は言い続けているのです。イエス・キリストはあなたのために十字架にかかったのです。
   主は、あなたの中から恐れを締め出し、あなたの律法にしがみつく生き方をやめさせようとしています。なぜなら、律法にしがみつけばしがみつくほど、人を憎み敵意を持ち争いが生まれるからです。しかし、キリストに愛されていることを知ると、人に対して「ねばならない」という見方がなくなり、ありのままの相手を受け入れられるようになってきます。父と子と聖霊の愛し合う関係が、互いの間にできるようになってくるのです。このように、律法の呪いから解放されると、私達は、本来造られた時の人を愛する生き方に戻ります。これが神の福音です。
   自由になるとは、人を愛することです。人を愛することが、真の喜び、自由をもたらします。キリストによって律法から解放され、肉の働く機会を捨てて、互いに愛し合い、仕え合う生き方をするように、聖書は教えています。