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2014年1月12日
『土台を確認する』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3章13節〜)
『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:13,14)

   人間は、罪によって神との関係が断たれるという死の中にあり、潜在的に不安と恐れを抱いています。そのため、自分の価値を見えるものに結びつけて生きるようになりました。それは、○○はこうあるべきだ、こうしなければならないと心の中にルールを持ち、そのルールをクリアすることに自分の価値を見出す生き方です。このような生き方を律法主義と言います。この生き方を支えているのが、見えるものに価値を見出す肉の価値観です。これは神の価値観とは全く異なるものです。
   この世界は、肉の価値観によって成り立っています。行いで人の価値を判断し、賞賛したり、ダメなやつだと裁いたりします。決められた規則に反することは悪いことですが、人の価値を判断するものではありません。
   イスラエルの民は神から律法を与えられた時、この世界を支配する肉の価値観によって、この律法を守ることで救われるのだと、間違って理解してしまいました。しかし、神が律法を与えた目的は、律法を達成した者を評価するためではなく、律法を通して罪に気づかせ、信仰によって救われるためです。神は、すでにアブラハムの時代に、信仰によって義と認め、祝福するという契約をしておられます。『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』(旧約聖書 創世記 12:3)これは、アブラハムを通して明らかにされた「信仰による義」によって人類が祝福されるという神の契約です。聖書は一貫して信仰による救いを教えています。
   ところが、私たちの価値観は律法に縛られているために、神の律法を世の中の律法と同じように捉え、神の律法を使って互いに批判しあうという間違いが繰り返されています。このように、神の律法を間違った方向で使ってしまうことが「律法ののろい」です。

『兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたなら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後430年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:15〜17)

   これは、創世記17章の話です。神は、『わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。』(旧約聖書 創世記 17:8)と言われました。この「あなたの子孫に」という言葉は単数形で書かれており、イエス・キリストを指して使われた言葉です。これは、神がアブラハムの血肉の子どもたち、すなわちイスラエルの民に、信仰で与えられる「カナンの地」と、イエス・キリストを信じる信仰で与えられる「安息」を重ねた、神の契約です。どちらも「信仰」によって得るのです。

『アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:6,7)

   神がアブラハムを信仰によって義とするという契約は、途中で無効になったりしていません。その後430年たって与えられたモーセの律法は、アブラハムとの契約を無効にするものではなく、むしろそれを明確にするためのものです。ところが、イスラエルの人々はモーセの律法が与えられた時、過去の契約は無効になり、行いで救われると思ってしまったのです。
   しかし神は、初めから信仰によって救うという契約しかしておられません。このように神の律法を間違って受け取り、初めの契約を破棄してしまったことを、パウロは「律法ののろい」と言ったのです。
   イエス様は、この「律法ののろい」から私達を贖い出し、修正するために十字架に掛かってくださったのです。

   イスラエルの過ちは、私達に、しっかりした信仰の土台を据え、柱を持たなければ、後から入ってきた情報に惑わされ、神の約束を間違えて理解する危険があることを警告しています。
   現代はいろいろな情報に溢れています。もし、しっかりした信仰の土台と柱を持っていなければ、簡単に人生を惑わされてしまいます。せっかくの神の祝福を、別ものに理解して、台無しにしてしまうのです。イスラエルはその失敗を犯してしまいました。   
   パウロは初めの契約を思い出すようにと言っています。神の契約は絶対に変わることがありません。神はどのような契約をしているのか、あなたは一体何者なのか、その人生の土台を確認し、理解しなければ、私達もイスラエルの民と同じ過ちを犯してしまいます。

『私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:9)

   あなたは神の畑であり、神の建物です。畑とは収穫を期待して作るものであり、畑の目的は実をならすことです。神が収穫したい実は、神を愛する心です。それは神への信頼であり、私達に希望をもたらします。つまり、信仰・希望・愛といういつまでも残るもの(Tコリント13:13)を、神は私たちの中に育て、実を結ばせ、収穫することを願っているのです。
   神は種まきのたとえの中で、ひとりひとりに御言葉の種をまくと語っておられます。その御言葉を信じて実行すれば、神を愛する実がなり、神を信頼する信仰が育つようになっているのです。しかし、神の言葉を聞こうとしなかったり、世の心遣いや富の惑わしによって御言葉を実行しなかったりすると、信仰の実を結ぶことはできません。
   また、建物はそれぞれの目的があって建てられるものです。神はひとりひとりに計画があり、役割があるとはっきり述べています。聖書はこのことを、ひとりひとりはキリストの体の各器官として造られたとも書いています。
   神が自分に与えている役割こそ、自分の土台であり柱となるものです。それがわかっていないと惑わされ、様々な情報に翻弄されてしまうのです。イスラエルの民は、自分が何故生きているのかをいつのまにか見失っていたために、流されてしまいました。私達も、自分は一体何者かを見失うと、簡単に惑わされ、流されてしまいます。あなたは自分が何者かを確認したことがあるでしょうか。
   私達は神の畑であり、神の建物だということを、まず自覚しなくてはなりません。私達は、神を愛する心を育てるようになっているのです。ですから、その方向に進まない限り、何をしても平安を得ることはできません。自分の生きたいように生き、自分の楽しみを追求したところで、心の奥底の不安、虚しさは決してなくなりません。本来の目的に従って本来の生き方をしない限り、平安に生きることはできないのです。
   パウロは、自分は何のために生きるのかを考え、福音を伝えていくことが使命だと気づきました。その柱ができたので、自分にはすべてのことが益になると言いました。それは、何をしても福音につなげることができるからです。柱がなければ益に変えることはできません。
   私達の共通の柱は神への信頼です。もし患難や困難に出会っても、信頼という柱さえ持っていれば、神への信仰を育てるチャンスと見ることができるので、喜びに変わります。しかし、柱がない人は、患難にぶつかると、なんでこんなことになったのかと右往左往するばかりで、物事の真実が見えてきません。
   私達は皆、神の畑であり建物です。キリストの体の器官です。あなたは目的があって造られました。あなたの役割を神に聞き、しっかりとした柱を立てましょう。

『与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:10,11)

   私達の土台はイエス・キリストです。神を信じるまでは、そうではありませんでしたが、今は土台が変わったのです。この土台の上には、どんなものを建てることができるのでしょうか。

『もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:12,15)

   キリストという土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建物を建てても、すべて消えてしまいます。
   金、銀、宝石、木、草、わらというのは、この世での価値、この世の評価を表します。人から評価されることを求めて金や銀を目指しても、どうせ自分はダメなんだと評価を求めないわらを目指しても、イエス・キリストという土台には、全く合いません。プラスを目指してもマイナスを目指しても、終わりの日に神の国に持っていくことはできないのです。

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:13)

   神の土台の上に建てられるもの、それは、信仰と希望と愛だけです。これ以外のものは何も残りません。イエス・キリストという土台の上に、今までと同じ生き方をして、この世界で何かを築いても何も残りません。後から後悔することのないように、イエス・キリストの上に建てられるものを築いていこうではありませんか。

『そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:28)

   信仰と希望と愛を一言で表すなら信頼です。聖書は私達に、神への信頼を持ち、終わりの日に恥じ入ることのないように教えています。 神を信頼できるようになるためには、神の言葉を素直に聞いて実行することです。御言葉を実行しようとすると、出来ない自分にすぐに気づきます。気づいたら神に憐れみを求めましょう。すると、全き愛でつつまれます。これは戦いでもありますが、このようにして、神を信頼する心が育つのです。これこそ、流されない土台です。
   神への信頼という土台がしっかりできると、困難にぶつかっても祈ろう、信じてみようという生き方になります。また、神に対してつぶやくことがなくなり、祈るようになります。そして、自分の役割、目標が明確に見えてくるようになります。 まずは、神への信頼を築くという土台が重要です。イスラエルの民は、土台が信頼ではなく行いにすり替わり、そのために目的を見失って惑わされてしまいました。これが律法ののろいです。
   ですから私達は、しっかりとした土台と柱を築き、さらなる信頼を目指して生きましょう。それは必ず平安をもたらします。 年の初めに当たり、まずは神への信頼を築くという土台を確認した上で、神は何の目的のために自分を造られたのか、自分の役割は具体的に何なのか、ぜひ神に祈り聞いてみましょう。あなたは目的を持って造られた神の畑、神の建物なのです。