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2012年9月2日
『実とは何か?〜種蒔きのたとえ〜』

   この地上における敵の正体は、「肉の価値観」と「恐れ」だということを学んできました。「肉の価値観」は、この世で積み上げてきた経験に基づき、御言葉の意味を勝手に補完し、私たちの目指すべき目標を惑わしてきます。それに対抗するために、私たちは真理の帯(正しい目標)を締めるのです。今回は、肉の価値観に惑わされやすい言葉を見ることで、真理の帯を確かなものにしていきましょう。その代表的なものに「実」という言葉があります。


   次の御言葉は、これまでも何度か取り上げてきましたが、「実」という言葉から、私たちはどのように惑わされてしまうのでしょう。


『わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:1,2)


   この御言葉を読むとき、肉の価値観は、「実」というのは、何か立派な行いができるようになることとか、成果を上げることとだと思わせます。そして、実がならなければ、取り除かれる=罰を受けると思ってしまいます。すると、人は罰を受けることを恐れ、自分の罪を隠すようになります。これでは、罪を差し出して、赦しの恵みを受け、神への信頼を増し加えるという生き方と正反対の方向に進んでしまいます。 (正確な意味は文末※1参照)


   それでは、聖書が教える「実」とは一体何なのでしょう。イエス様が語られた種蒔きのたとえから学んでいきましょう。


   最初に、たとえの中の登場人物を確認します。種を蒔く農夫は、神を意味します。種が蒔かれた地は、私たちを意味します。そして、種は御言葉を意味します。このたとえは、農夫が種を蒔き、種が育ち、多くの実をならせる行程を説明しています。つまり、神は、私たちに多くの実をならせたいのです。ですから、私たちの目指すべき目標は、実をならすことです。では、神はどのような実を収穫するのが目的で、御言葉の種を私たちに蒔かれるのでしょうか。


『種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 13:3〜9)


   御言葉の種が、四つの異なる地に蒔かれたとあります。この地は、大きく分けて、二つのグループに分けられます。一つは、「道ばた」と「岩地」のグループです。このグループに共通しているのは、種が根を出せなかったことです。根がないので、当然実もなりません。根がないとは、永遠のいのちの土台が据えられていない人たちです。つまり、イエス・キリストを信じる信仰が与えられていない人たちです。


   もう一つのグループは、「いばら」と「良い地」です。こちらは、種が根を出し、生長していきます。根を出すとは、永遠のいのちの土台が据えられた人たちであり、イエス・キリストを信じる信仰が与えられた人たちです。いわゆる、救いの恵みに預かったクリスチャンです。そして、たとえでは、さらにクリスチャンを二つに分けています。一つは、実がならない「いばら」のグループ。一つは、実がなる「良い地」のグループです。二つの違いは、いばらが生い茂っているか、いないかの違いだけです。生い茂っている方は、いばらに成長が阻まれ実がなりません。生い茂っていない方は、実がなります。ですから、実がなるように、いばらを取り除いていきなさいというのが、このたとえの概要です。


   さて、概要が分かったところで、実とは何かを探ってみましょう。探る上で重要なカギとなるのは、実は、いばらがあると実らない特性を持っていることです。つまり、いばらとは正反対の性質のものが、実の正体ということになります。では、種の生長を妨げ、実をならせないという「いばら」は、一体何なのでしょうか。イエス様は、いばらのことをこう説明されました。


『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)


   イエス様は、実の邪魔をするいばらの正体は、「この世の心づかい」と「富の惑わし」だと言われました。これは、今まで何度も述べてきた、肉の価値観が生み出した人の生き方です。肉の価値観は、死がもたらした罪であり、心を神に向けさせないことを目的にしています。確かに、人は「この世の心づかい」から、心を人に向け、神に向けようとはしません。確かに、人は「富の惑わし」から、心をお金に向け、神に向けようとはしません。こうした心を神に向けない罪が、不信仰です。すなわち、不信仰とは正反対の性質のものが、「実」の正体なのです。それは、神への信頼です。


   確かに、神への信頼は、不信仰が強ければ強いだけ、成長していきません。反対に、不信仰であるいばらが取り除かれれば除かれるだけ、心は神に向けられ、御言葉が食べられるようになり、神への信頼は成長していきません。信頼が成長すればするだけ、人の心に平安をもたらします。つまり、実とは、「平安」を指していることが分かります。では、さらに別な視点からも、同様の答えを導き出してみましょう。


   イエス様は、実がなる良い地のことを、『ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。』(新約聖書 マタイの福音書 13:23)と言われました。実がなる良い地とは、御言葉を聞いて悟る人だと言われました。


   では、御言葉を聞いてそれを悟ることができると、一体どのような実がなるのでしょうか。例えば、困難な中にあるとき、次の御言葉を聞いたとします。『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』(旧約聖書 イザヤ書 41:10)御言葉を聞いてそれを悟るというのは、この神の約束の言葉が信じられることをいいます。信じられたならば、心に平安がきます。たとえ約束の助けが現実に起きなくとも、平安でいられます。なぜなら、神の約束が信じられたなら、それをはるかに見て喜べるからです。


『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)


   この御言葉は、御言葉を聞いてそれを悟ると、見えるところがどうであれ、平安でいられることを教えています。このことから、御言葉を聞いて悟ることでなる実は、御言葉が信じられることから手にする、つまり、神への信頼から手にする「平安」であることが分かります。


   そして、この平安は、私たちにまことの行いをもたらします。なぜなら、見返りを期待した行いを頑張って、人から平安を手に入れる必要がなくなるからです。ですから、愛に根差したまことの行いができるようになります。そうした意味で、実というのは、まことの行いを指しているとも言えます。だからといって、実を「行い」としてしまうと、惑わされやすくなります。心配しなくとも、行いは、必ず平安の実がなれば、自動的にそれに伴います。ですから、あえて実とすることもありません。なるべく、目標を肉の価値観に惑わされないようにするには、神への信頼からもたらされる平安を、実として捉えるのが最善です。


   このように、実というのは、決して見た目の行いではありません。罪と戦い、神を信頼できることから生まれる平安です。それを、肉の価値観は意味を勝手に補完し、私たちを惑わすのです。見た目の行いを実だと思わせ、間違った方向に進ませるのです。そうなると、見た目を良くしようと、自分の罪を隠し、人の行いをさばくようになります。そうなってしまったのが、パリサイ人であり、律法学者でした。彼らは、神が求める実を、見た目の行いを積み上げることだと勘違いし、それを求めた結果、イエス様を迫害するに至ったのです。つまり、この生き方は、神に近づくどころか、神に逆らう正反対の生き方を目指しているのです。


   私たちは、自分が間違った実をならせていないか、見分ける必要があります。それにあたっては、にせ預言者を見分けるやり方が、そのまま適応できます。なぜなら、異端と呼ばれるにせ預言者は、御霊のいのちを受けてはいないため、肉の力で神に近づこうとするからです。その生き方が、どのような実をならせるのかを知っていれば、私たちが信仰ではなく、肉の力で神に近づこうとしているかを、見分けることができます。では、イエス様が言われた、にせ預言者の見分け方を見てみましょう。


『こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:20〜21)


   この御言葉は、イエス様が、にせ預言者の見分け方を教えられた中での一節です。彼らが本物か偽物かの判断は、実によって見分けられると言われました。イエス様が言われた実とは、御霊の実です。御霊の実は、罪に気づき、赦しの恵みに預かることで手にします。悔い改めを導くのは、御霊ゆえ、御霊の実と言えます。


  それに対して、にせ預言者の実は、確かに『主よ、主よ』と、神を信頼する言葉を発しはするが、御霊の実はなりません。なぜなら、彼らの場合、救われていないから御霊が働かれないのです。したがって、肉の力だけで救いを達成しようとします。つまり、行いを積み上げることで神に近づこうとし、行いで救いを手にしようとするのです。ですから、彼らの実は、自分が何をしたかという行いの実であり、御霊の実ではありません。そのことを、イエス様は続けてこう言われました。


『その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』(新約聖書 マタイの福音書 7:22)


   彼らは、必死で自分がしたことを述べ、だから自分は正しいと叫びます。彼らにとっての実は、自分がしてきた「行い」ですから、このように叫ぶのです。この叫びから、彼らは行いこそが、神を愛することの証しだと思っていたことがよく分かります。しかし、それは、本当の実ではありません。ただ、自らが誇るために、神を利用しているにすぎません。ですから、イエス様は彼らに対してこう言われました。


『しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(新約聖書 マタイの福音書 7:23)


   イエス様は、彼らの実は、にせ物であることを明確に宣言しています。このように、その道が正しいかどうかは、実によって見分けられるのです。正しい道を進んでいるなら、御霊の実がなり、平安を手にします。そして、行いを誇ることはしません。さらには、心に平安があるから、決して、人をさばいたりもしません。逆に、行いを誇り、人をさばくなら、それは間違った実であり、間違った道を進んでいるのです。


   神への信頼という実は、罪を認め、それを神に差し出し、赦しの恵みに預かることで実るものです。決して、惑わされることなく、正しい目標へと進んでいきましょう。


※1)「実」とは、神への信頼から生まれる平安な義の実である。 「取り除き」というギリシャ語には、持ち上げるとか、支えるという意味がある。 農夫は、垂れ下がったぶどうの枝を持ち上げ、支え、実がなるように世話をする。 取り除くのは、汚れたり枯れたりした部分であり、それは私たちの罪を指す。 神は、私たちの罪を取り除くのであって、決して私たち自身を取り除く(救いを取り消す)のではない。